ルポルタージュ
「アルジェ・レピュブリカン」は創刊にあたって、「人民戦線の綱領を支持し」、「原住民の友人たちを劣った地位にとどめる社会的保守主義に反対し」、「出自、宗教、哲学がなんであれ、あらゆるフランス人の社会的平等を即時要求し」、「アルジェリア原住民の政治的平等を目指す」と宣言していた。
新聞が創刊される直前の9月30日、英仏独伊の間で、ズデーテン地方をドイツに割譲することを認めるミュンヘン協定が調印され、これに反対するソビエト連邦や左翼知識人たちとの亀裂は一層深まり、戦争への懸念が高まっていた。
「アルジェ・レピュブリカン」は、反ファシズムの立場から国際情勢を報じたが、その他にもスポーツに1ページ、さらに「ベルクールからバーブ・エル=ウーエドまで」と題した地域のニュースに2ページを割いて、植民地アルジェリアが抱える現実を正面から取り上げた。
記者の多くがジャーナリズムの未経験者だったが、編集長のパスカル・ピアはいち早く若いカミュの観察眼と文章力を見抜いた。カミュも精力的に取材活動を行うとともに、1939年 5月23日に、前著と同じエドモン・シャルロ書店から2冊目のエッセー集『結婚(Noces)』を出した。90ページほどの本に、「ティパサでの結婚」、「ジェミラの風」、「アルジェの夏」、「砂漠」の4篇が収められ、1,225部の限定出版だった。エッセーはどれも地中海地方特有の大地、輝く太陽、青い空、吹き渡る風、芳香を放つ色とりどりの花……こうした世界の美しさを肌で感じ、今この時を生きることへの讃歌だった。
『結婚』が陽の目を見た2日後、パスカル・ピアは、記者証を手にしてまだ1年8カ月にしかならないカミュを、北部のカリビア(La Kalybie)地方の取材に向かわせた。ライバル紙の「レコ・ダルジェ」が、「カリビア地方は楽園である」といった記事を載せたが、ベルベル人が多く住むこの地域の生活について、実態に即したルポルタージュをカミュに期待したのである。
アラビア語もベルベル語も話せなかったカミュは、通訳を伴って現地に入り、人びとから直接話を聞いた。その成果は、「カリビアの悲惨」と題した長文のルポルタージュとして、6月5日から15日まで11回にわたって掲載された。
6月5日の「ぼろ着のギリシア」と副題された第1回は、次のように書き出される。
「カビリアの傾斜地にさしかかり、天然の段丘のまわりにかたまる集落、白い羊毛を巻いた人たち、そしてオリーブとイチジクとサボテンの並木道を眺め、そのあとで人と土地が調和したような単純な生活と風景を目にするとき、人はギリシアを想わずにはいられない。」
ジャーナリスト、カミュは、『結婚』の一節のような筆致でルポルタージュをはじめるが、一見のどかな光景の裏に恐るべき貧困が隠れていた。
「カリビアの悲惨さの全体像を描く前に、さらにこの期間訪ね歩いた飢餓の道程をたどり直す前に、この悲惨さの経済的原因について少し語っておきたい。それらはすべて一本の線でつながっている。カリビアは人口過剰の土地であり、生産する以上のものを消費している。山岳地帯の襞々が大勢の人間を抱え込んでいる。たとえばジュルジュラのような地域では、1キロ四方に247人がひしめいているが、ヨーロッパのどんな国にもこんな人口過密なところはない。フランスの1キロ四方の平均人口は71人である。他方、カリビアの人たちは雑穀類、小麦、大麦、モロコシをクレープやクスクスとして消費する。ところがカリビアの土地は穀類をほとんど産しないし、全生産は消費量の8割にしか達しない。だから生きていくため必要な穀物を購入しなくてはならないが、工業がほとんどゼロの〔収入のない〕土地では、副食用の農産物でそれを補うしかない。
カリビアはとくに樹木栽培が盛んな土地である。二大産物はイチジクとオリーブで、多くの地方でイチジクは消費量をほぼまかなえている。オリーブに関しては、年によって作、不作の差が激しい。この飢えた人たちに必要な穀物と、生産の現状をどうやったら均衡させることができるのか?」
カミュはカリビアの各地をまわり、通訳を介して人びとから生活の実態を聞き出す。
「農業労働者は1日分の食料として、大麦でつくったクレープ4分の1と、小瓶1本の油をもっていく。家族の食料は根と草で、それに何時間も煮たイラクサが貧しい人たちの副食となる。
カリビアの労働条件は奴隷のそれだと言わざるをえない。なぜなら6ないし10フランの賃金を得るのに、10時間から12時間働く労働者たちの労働形態を指すのに、奴隷制以外の言葉を、わたしは知らない。
彼らはどんなことにも適応できるなどと言うことほど恥ずべきことはない。はたしてアルベール・ルブラン氏〔当時の大統領〕は、生きるために1カ月200フランをあたえられ、橋の下で生活し、汚物にまみれ、ごみ箱から見つけたパンの耳で生きていくことに適応できるのだろうか。彼らは、わたしたちと同じ要求を持つべきではないなどと言うのは恥ずべきことだ。
労働者は1カ月に25日働いても150フランしか得られず、それで子沢山の一家を30日間食べさせなくてはならない。これは怒りの限界を越えている。ただ、わたしとしては、読者のうちの何人が、これで生きていけるのかと問いかけるにとどめよう。」
カミュが見たのは、飢えで死んでいく人たちだった。当局が配給する小麦や大麦の粉は、人びとが必要とする量にはまったく足りなかった。だがカミュは早急な断定を保留する。
「しかしわたしに、この事実が彼らを死にいたらしめるかどうかは分からない・・・・・・問題は、わたしたちが、3世紀も遅れている人たちと共に生活しているという事実だ。そしてわたしたちだけが、この驚くべきギャップに不感症だということだ。」
カリビア地方で不足しているのは食料だけではなかった。学校の数が極端に少なく、その質もきわめて不十分だった。カミュは11回の連載を締めくるにあたって次のように書く。
「これで十分ではないのか? 自分のノートを見ると、胸をムカつかせる事実が、この2倍は見つかる。そしてそれを読者の皆に知ってもらうことに絶望する。だがそのすべてを伝えなくてはならない。わたしは飢えと苦悩に苛まれている人びとの間をめぐる取材をここで終える。読者は、この地では悲惨が決まり文句でも、単なる考察の対象でもないことを理解してくれたと思う。ここには悲惨がある。それは叫び声をあげ、絶望している。もう一度言う。わたしたちはこれに対して何をしてきたか? これに背を向ける権利が、わたしたちにあるのか?」
サントス=サインスによると、カミュの記事の反響はすぐにあった。3日後、保守派の「ラ・デペッシュ・アルジェリアンヌ」の編集長ロジェ・フリソン=ロッシュは、「カビリア 39」と題した連載を開始し、「フランスはカリビアのためによいことを沢山してきた」と書き、カミュを「イデオロギーで目が眩んでいる」と非難した。フリソン=ロッシュは、首都アルジェの市長ロジスの取り巻きの一人だった。
残念なことに、カミュの優れたルポルタージュによって、読者が増えることはなかった。現地の人びとの多くは新聞を読む習慣がなかった。そして読むにしても、自分たちに好意的な「アルジェ・レピュブリカン」ではなく、保守系の「ラ・デペッシュ・アルジェリエンヌ」だった。
廃刊
ヨーロッパの情勢は緊迫していた。1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結、共産党だけでなく左翼の人びとを混乱と絶望に陥れた。ヒトラーはこれを機に一層攻勢を強めた。パリでは共産党系の日刊紙、「ユマニテ(L’ Humanité)」と「ス・ソワール」が押収された。8月26日にはベルギーで総動員令が発動され、戦争の危機が迫った。
1939年9月1日、ドイツは陸軍と空軍とでポーランドに侵攻し、同じ日、イギリスとフランスは総動員令を発動した。3日には両国がドイツに宣戦を布告して第二次大戦がはじまった。
レオン・ブルムのあとを継いだダラディエの内閣は、9月29日に共産党と地域政党「アルジェリア人民党(Parti du peuplealgérien, PPA)」を非合法化し、両党の幹部を逮捕拘禁してメンバーを監視下に置いた。そして検閲制度を復活させ、新聞記事も愛国的な論調以外のものはすべて検閲された。新聞はしばしば紙面の一部が白紙のまま発行され、あるいは発行停止の処分をうけた。
「アルジェ・レピュブリカン」も時勢に逆らうことはできなかった。その上ここにいたって、ジャン=ピエール・フォールたち経営陣は、パスカル・ピアやカミュたち編集部が創刊当時の路線を逸脱して、「人民戦線の新聞はアナキストの新聞に変貌してしまった」といって非難した。カミュたちは当局以外に、新聞の上層部とも闘わなければならなかった。
やがて来る事態を予想して、パスカル・ピアとカミュは、カミュを編集長とする姉妹紙「ル・ソワール・レピュブリカン(Le Soir Républicain夕刊共和派)」の発行を決めた。1枚の紙の表裏2面に記事を載せた創刊号は、9月15日、1部40サンチームで発売された。趣意書によれば、公衆は真実の報道に飢えている、そこで新しい日刊紙は午後4時に店頭に並び、他紙の誇大宣伝を撃つ、というのであった。
「アルジェ・レピュブリカン」は購読者が激減し、10月28日についに休刊に追い込まれた。「ル・ソワール・レピュブリカン」はその後も刊行を続けたが、10月30日の一面には、検閲をうけて真っ白になったページの真ん中に、「「ル・ソワール・レピュブリカン」は他の新聞とは違う、それは読むに値する何かを提供する。」と大文字で印刷されていた。
サントス=サインスによると、フランスの有力紙「ル・モンド」のジャーナリスト、マーシャ・セリ(Macha Séry)は、2012年に、南仏エックス=アン=プロヴァンスにある「海外県に関する国立資料館」で、「自由なジャーナリストの宣言」と題したカミュの署名記事を見つけ出した。これは「ル・ソワール・レピュブリカン」の1939年11月25日号に掲載するために執筆されたが、直前の検閲によって掲載を禁止され、陽の目を見なかったものである。セリはこれを2012年3月17日付の「ル・モンド」紙に発表した。カミュは次のように書いていた。
「今日、フランスでの問題は、いかにして新聞の自由を護るかではない。問題はこれらの自由に対する圧力をうけて、一人のジャーナリストがどうしたら自由でいられるかを探し求めることである。問題は集団ではなく、個人に関わることなのだ。……
1939年にあって、一人の自由なジャーナリストは、絶望することなく、自らが真実だと思うことのために戦うのだ。自分の行為が事件の動きに影響をあたえることを信じて。彼は憎しみを助長し、あるいは絶望を生むものは一切書くことはない。こうしたことはすべて彼の力でできるのだ。……
水嵩を増す愚劣さの沼には、何らかの拒否で対抗する必要がある。世の中のすべての強制は、不誠実を受け入れるいささか清廉すぎる精神にのみ働きかける。
ごく少数の者しか情報のメカニズムを知らず、彼らは簡単にニュースの正当性を信じてしまう。自由なジャーナリストはこの事実にこそ注意をむけるべきだ。
独立した新聞は情報の出どころを明かし、公衆がそれを吟味するのを助け、頭の詰め物を取りのけ、罵言を払拭し、解説によって情報が画一化するのを避ける必要がある。要はジャーナリストの力によって、真実を人間的尺度に還元するのである。これこそが世の中に嘘がはびこるのを拒否するのに役立つのだ。」
カミュはジャーナリズムに高い理想を託したが、現実はこれとは裏腹だった。「アルジェ・レピュブリカン」の休刊とともに多くの記者が解雇され、「ル・ソワール・レピュブリカン」のつくり手は、カミュとパスカル・ピア以外に14名だけというありさまだった。その上、アルジェは情報源に遠く、情報は契約しているアジャンス・ラジオ(ラジオ通信)に頼るしかなく、ときに政府発表の誤った情報を載せざるを得ないこともあった。
1940年1月9日、アルジェ総督は新聞の発行を差し止める法令を発布した。翌10日の夕方、警察は「ル・ソワール・レピュブリカン」社内で、予約購読者宛てに発送される新聞110部を押収し、駅の新聞スタンドやタバコ屋の店頭から合計1051部を回収した。
パスカル・ピアとカミュは後始末に追われた。職を失った記者や印刷工などへの給料の清算を終えると、パスカル・ピアは妻と娘、それに義母を連れて、2月8日に船でアルジェをあとにした。パリに戻った彼は、「パリ・ソワール(Paris-Soir)」紙の編集長に迎えられ、カミュのために編集部での仕事を見つけてくれた。カミュがパリに行ったのは3月23日のことである。ただ、カミュの仕事は編集秘書としての編集作業への助言が主で、彼自身が記事を書くことはなかった。
1940年6月17日、パリはドイツ軍によって占領された。このため「パリ・ソワール」は自由地区のクレルモン=フェラン、次いでリヨンへと本拠を移し、カミュもこれに従った。12月には、オラン出身の数学者で、ピアニストのフランシーヌ・フォールと再婚したが、新聞社では物資の不足と購読者の減少から人員整理が行われ、カミュは感謝しつつ退職の道を選んだ。
その後、彼はオランの妻の実家に身を寄せ、私立中学校でフランス語を教えるとともに、公教育から排除されたユダヤ人学生のために哲学の授業を受け持った。そしてこの間も、小説「異邦人(L’ Ētranger)」、評論「シシューポスの神話(Le Mythe deSisyphe)」、戯曲「カリギュラ(Caligula)」の創作を進めた。
「異邦人」がパリの老舗ガリマール社から出版され、文学界にセンセーションを巻き起こしたのは1942年5月のことである。このときガリマール社の査読委員であるアンドレ・マルロー、ジャン・ポーラン、ロジェ・マルタン・デュ・ガルに原稿を読むように紹介してくれたのもパスカル・ピアだった。
こうして一躍有名になったカミュは、レジスタンの一環として非合法誌「コンバ(Combat、戦闘)」の編集にかかわり、逮捕を免れるために、アルベール・マテ(AlbertMathé)などの匿名で記事を載せた。
カミュはジャーナリストの仕事に矜持を抱いていた。アルジェ時代にこんな言葉を残している。
「ジャーナリストは言葉の保持者だ。彼はときにこの宝物を用いて、自らの国の名のもとに語る。新聞は一国の言語活動〔ランガージュ〕なのだ。」
カミュは言葉が諸刃の剣であるのを十分に自覚していた。その上でジャーナリズムの仕事に矜持を抱いていた。だから彼はジャーナリストとして、人びとの名のもとに語ることを躊躇しなかったのである。(完)