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ムッシュKの日々の便り

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変動する書物(1)

 『マラルメ探し』は1992年に青土社から刊行したもので、そのなかにマラルメの「書物」に関する覚書について、「変動する書物」と題した論文を収録した。初出は「書物の物理学」というタイトルで、雑誌「TwiLight」の19917月の第1号から4回にわたって掲載したものだが、執筆したのはそれより10年近く前の1972年のことである。

『マラルメ探し』は古書としていまも入手可能だが、「変動する書物」をぜひ読んでいただきたく、以下このブログに再掲する。引用の翻訳には若干手を加えた。では、


残された覚書


ジャック・シェレル教授によれば、マラルメは1873年頃から「書物」に真剣に取り組んだ。そして、折々の考察を紙片に書きつけたが、そのうち202枚が死後に残されたのである。シェレル教授がアンリ・モンドールから研究を依頼されたとき、大きさのことなる202枚の紙片に黒インクや鉛筆で書かれた草稿は、二つ折りにした六角形の装飾のある青い紙に挟まれてあったという。〔その後、ベルトラン・マルシャルは、1998年に刊行した新版『マラルメ全集Ⅰ』では、ジャック・シェレルが排除したものを含めて258枚の草稿を、「「書物」をめざす覚書」と題して発表し、内容について詳細な分析を行った。〕

「書物」に関する草稿も、死を目前にしたマラルメによって焼き捨てるよう遺言されたものの一つだが幸いにも保存され、遺族からモンドールをへてシェレル教授に託されたのだった。

シェレル教授は、謎にみちた草稿の解読をこころみ、同時に202枚を手渡されたときの順序のままに、忠実に活字にして発表したのである。以下シェレル教授の解説にそって、マラルメが「書物」についてどのような考えを抱いていたかを考察してみたい。


202枚の大部分は、さまざまな計算に費やされている。計算の意味は、「書物」の巻数や部数、読者(聴衆)の人数、その並び方や位置、朗唱会の上演時間数など、「書物」が持つべき構造を決めるものである。

1891年、マラルメはジャーナリスト、ジュール・ユレの質問に答える際に、「世界は美しい一巻の書物に帰着するように創られている」と語り、4年後に「白色評論」に掲載した『書物、精神の楽器』では、この言葉を多少変化させて、「この世界において、すべては一巻の書物に帰着するために存在する」と書いている。

マラルメは、こうした表現を単なる比喩として用いたのではなかった。彼は世界が帰着すべき「書物」の創作を、真剣に考えていたのである。残された覚書は、この「書物」が充たすべき条件についての具体的な検討の跡を示している。マラルメは18851116日付けヴェルレーヌ宛の手紙でも、「書物」に触れてこう述べている。


「それは説明するのは難しいの、簡単に言えば、数巻からなる一つの書物です。書物といえば書物であって、建築的で、あらかじめ塾考されたものであって、どれほど驚嘆すべき霊感であれ、決してその蒐集ではない・・・根本において、たった一つしかないと確信される書物といったものです。地上世界のオルフェウス主義神秘的解明、それこそ詩人の唯一の義務であり、きわめて文学的な遊戯です。なぜなら、そのとき非個性的で、しかも生きている書物の律動それ自体は、そのページ付けにおいてまで、この夢、すなわちオードの方程式に並列されるのです。・・・この著作をその全体としてつくるのではなく(そのためには誰かわたしの知らない人物が必要でしょう)、ただその制作されたものの一断片を示すだけで、その光栄ある真正さを、ある場所によって輝かせるだけで、残余の全体については一生涯かかっても足りないことを示すのみです。つくられた部分によって、この書物が存在していること、わたしが完成し得なかったことをわたしは知っていたと証明することなのです。


マラルメの予言は不幸にして当たった。「書物」はその全貌を現すことなく終わったが、詩人は「完成しなかったもの」の存在を確信していたのである。

マラルメはまず、「書物」が持つべき形態について、繰り返し計算をおこなっている。「書物」(「ブロック」)がどんな大きさを持つべきか、「この直方体の比例の法則」を研究した。

覚書39および40によれば、「書物」は結論として、縦、横、高さの三つが、ある決まった整数の比になるべきだと考えられている。本の厚さを1とすれば、横幅は4、高さは5ないし6でなくてはならないというのである。そして、当然のことながら、この数字は1ページに含まれる詩句の長さと行数に深くかかわってくる。

「ブロック」は、一冊の本を指すと同時に、複数の本を重ねた全体を指す場合もある。数冊の本を重ねた全体が、新たな直方体を形成する。このとき本の縦の高さが厚さの6倍だとすれば、6冊の本を横にして重ねたものの高さは一冊のと同じになる。マラルメにはこの形がもっとも堅固なものと思えたびであった。「このブロックは、立っていようと、横に重ねられていようと、正面から見た場合は正方形となる」(覚書39)というわけである。

だがなぜそうなのか。残された覚書ではこれ以上の分析はなされていない。

「書物」は人類の永遠の記念碑として構想されるべきであり、堅固で、荘厳でなければならない。塾考された構成法に則らないものは「書物」の名にふさわしくない。しかし同時にマラルメは、「書物」が石造りの記念碑のように不動であってはならないとも考えていた。そこに読者の参加する余地があり、読者が「自由に扱える」と感じない限り、「書物」は読者のものとはならず、成立条件の一つを欠くことになる。

「書物」が一見正反対のこうした要求を充たすにはどうすればよいか。ここに新たな課題、つまり「運動」の概念が登場することになった。(続)


# by monsieurk | 2024-03-01 09:00 | マラルメ

若きカミュ(2)

 ルポルタージュ


「アルジェ・レピュブリカン」は創刊にあたって、「人民戦線の綱領を支持し」、「原住民の友人たちを劣った地位にとどめる社会的保守主義に反対し」、「出自、宗教、哲学がなんであれ、あらゆるフランス人の社会的平等を即時要求し」、「アルジェリア原住民の政治的平等を目指す」と宣言していた。

新聞が創刊される直前の930日、英仏独伊の間で、ズデーテン地方をドイツに割譲することを認めるミュンヘン協定が調印され、これに反対するソビエト連邦や左翼知識人たちとの亀裂は一層深まり、戦争への懸念が高まっていた。

「アルジェ・レピュブリカン」は、反ファシズムの立場から国際情勢を報じたが、その他にもスポーツに1ページ、さらに「ベルクールからバーブ・エル=ウーエドまで」と題した地域のニュースに2ページを割いて、植民地アルジェリアが抱える現実を正面から取り上げた。

記者の多くがジャーナリズムの未経験者だったが、編集長のパスカル・ピアはいち早く若いカミュの観察眼と文章力を見抜いた。カミュも精力的に取材活動を行うとともに、1939 523日に、前著と同じエドモン・シャルロ書店から2冊目のエッセー集『結婚(Noces)』を出した。90ページほどの本に、「ティパサでの結婚」、「ジェミラの風」、「アルジェの夏」、「砂漠」の4篇が収められ、1,225部の限定出版だった。エッセーはどれも地中海地方特有の大地、輝く太陽、青い空、吹き渡る風、芳香を放つ色とりどりの花……こうした世界の美しさを肌で感じ、今この時を生きることへの讃歌だった。

『結婚』が陽の目を見た2日後、パスカル・ピアは、記者証を手にしてまだ18カ月にしかならないカミュを、北部のカリビア(La Kalybie)地方の取材に向かわせた。ライバル紙の「レコ・ダルジェ」が、「カリビア地方は楽園である」といった記事を載せたが、ベルベル人が多く住むこの地域の生活について、実態に即したルポルタージュをカミュに期待したのである。

アラビア語もベルベル語も話せなかったカミュは、通訳を伴って現地に入り、人びとから直接話を聞いた。その成果は、「カリビアの悲惨」と題した長文のルポルタージュとして、65日から15日まで11回にわたって掲載された。

65日の「ぼろ着のギリシア」と副題された第1回は、次のように書き出される。


「カビリアの傾斜地にさしかかり、天然の段丘のまわりにかたまる集落、白い羊毛を巻いた人たち、そしてオリーブとイチジクとサボテンの並木道を眺め、そのあとで人と土地が調和したような単純な生活と風景を目にするとき、人はギリシアを想わずにはいられない。」


ジャーナリスト、カミュは、『結婚』の一節のような筆致でルポルタージュをはじめるが、一見のどかな光景の裏に恐るべき貧困が隠れていた。


「カリビアの悲惨さの全体像を描く前に、さらにこの期間訪ね歩いた飢餓の道程をたどり直す前に、この悲惨さの経済的原因について少し語っておきたい。それらはすべて一本の線でつながっている。カリビアは人口過剰の土地であり、生産する以上のものを消費している。山岳地帯の襞々が大勢の人間を抱え込んでいる。たとえばジュルジュラのような地域では、1キロ四方に247人がひしめいているが、ヨーロッパのどんな国にもこんな人口過密なところはない。フランスの1キロ四方の平均人口は71人である。他方、カリビアの人たちは雑穀類、小麦、大麦、モロコシをクレープやクスクスとして消費する。ところがカリビアの土地は穀類をほとんど産しないし、全生産は消費量の8割にしか達しない。だから生きていくため必要な穀物を購入しなくてはならないが、工業がほとんどゼロの〔収入のない〕土地では、副食用の農産物でそれを補うしかない。

カリビアはとくに樹木栽培が盛んな土地である。二大産物はイチジクとオリーブで、多くの地方でイチジクは消費量をほぼまかなえている。オリーブに関しては、年によって作、不作の差が激しい。この飢えた人たちに必要な穀物と、生産の現状をどうやったら均衡させることができるのか?」


カミュはカリビアの各地をまわり、通訳を介して人びとから生活の実態を聞き出す。


「農業労働者は1日分の食料として、大麦でつくったクレープ4分の1と、小瓶1本の油をもっていく。家族の食料は根と草で、それに何時間も煮たイラクサが貧しい人たちの副食となる。

カリビアの労働条件は奴隷のそれだと言わざるをえない。なぜなら6ないし10フランの賃金を得るのに、10時間から12時間働く労働者たちの労働形態を指すのに、奴隷制以外の言葉を、わたしは知らない。

彼らはどんなことにも適応できるなどと言うことほど恥ずべきことはない。はたしてアルベール・ルブラン氏〔当時の大統領〕は、生きるために1カ月200フランをあたえられ、橋の下で生活し、汚物にまみれ、ごみ箱から見つけたパンの耳で生きていくことに適応できるのだろうか。彼らは、わたしたちと同じ要求を持つべきではないなどと言うのは恥ずべきことだ。

労働者は1カ月に25日働いても150フランしか得られず、それで子沢山の一家を30日間食べさせなくてはならない。これは怒りの限界を越えている。ただ、わたしとしては、読者のうちの何人が、これで生きていけるのかと問いかけるにとどめよう。」


カミュが見たのは、飢えで死んでいく人たちだった。当局が配給する小麦や大麦の粉は、人びとが必要とする量にはまったく足りなかった。だがカミュは早急な断定を保留する。


「しかしわたしに、この事実が彼らを死にいたらしめるかどうかは分からない・・・・・・問題は、わたしたちが、3世紀も遅れている人たちと共に生活しているという事実だ。そしてわたしたちだけが、この驚くべきギャップに不感症だということだ。」


カリビア地方で不足しているのは食料だけではなかった。学校の数が極端に少なく、その質もきわめて不十分だった。カミュは11回の連載を締めくるにあたって次のように書く。


「これで十分ではないのか? 自分のノートを見ると、胸をムカつかせる事実が、この2倍は見つかる。そしてそれを読者の皆に知ってもらうことに絶望する。だがそのすべてを伝えなくてはならない。わたしは飢えと苦悩に苛まれている人びとの間をめぐる取材をここで終える。読者は、この地では悲惨が決まり文句でも、単なる考察の対象でもないことを理解してくれたと思う。ここには悲惨がある。それは叫び声をあげ、絶望している。もう一度言う。わたしたちはこれに対して何をしてきたか? これに背を向ける権利が、わたしたちにあるのか?」


サントス=サインスによると、カミュの記事の反響はすぐにあった。3日後、保守派の「ラ・デペッシュ・アルジェリアンヌ」の編集長ロジェ・フリソン=ロッシュは、「カビリア 39」と題した連載を開始し、「フランスはカリビアのためによいことを沢山してきた」と書き、カミュを「イデオロギーで目が眩んでいる」と非難した。フリソン=ロッシュは、首都アルジェの市長ロジスの取り巻きの一人だった。

残念なことに、カミュの優れたルポルタージュによって、読者が増えることはなかった。現地の人びとの多くは新聞を読む習慣がなかった。そして読むにしても、自分たちに好意的な「アルジェ・レピュブリカン」ではなく、保守系の「ラ・デペッシュ・アルジェリエンヌ」だった。


廃刊

 

 ヨーロッパの情勢は緊迫していた。1939823日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結、共産党だけでなく左翼の人びとを混乱と絶望に陥れた。ヒトラーはこれを機に一層攻勢を強めた。パリでは共産党系の日刊紙、「ユマニテ(L’ Humanité)」と「ス・ソワール」が押収された。826日にはベルギーで総動員令が発動され、戦争の危機が迫った。

193991日、ドイツは陸軍と空軍とでポーランドに侵攻し、同じ日、イギリスとフランスは総動員令を発動した。3日には両国がドイツに宣戦を布告して第二次大戦がはじまった。

 レオン・ブルムのあとを継いだダラディエの内閣は、929日に共産党と地域政党「アルジェリア人民党(Parti du peuplealgérien, PPA)」を非合法化し、両党の幹部を逮捕拘禁してメンバーを監視下に置いた。そして検閲制度を復活させ、新聞記事も愛国的な論調以外のものはすべて検閲された。新聞はしばしば紙面の一部が白紙のまま発行され、あるいは発行停止の処分をうけた。

「アルジェ・レピュブリカン」も時勢に逆らうことはできなかった。その上ここにいたって、ジャン=ピエール・フォールたち経営陣は、パスカル・ピアやカミュたち編集部が創刊当時の路線を逸脱して、「人民戦線の新聞はアナキストの新聞に変貌してしまった」といって非難した。カミュたちは当局以外に、新聞の上層部とも闘わなければならなかった。

 やがて来る事態を予想して、パスカル・ピアとカミュは、カミュを編集長とする姉妹紙「ル・ソワール・レピュブリカン(Le Soir Républicain夕刊共和派)」の発行を決めた。1枚の紙の表裏2面に記事を載せた創刊号は、915日、140サンチームで発売された。趣意書によれば、公衆は真実の報道に飢えている、そこで新しい日刊紙は午後4時に店頭に並び、他紙の誇大宣伝を撃つ、というのであった。

「アルジェ・レピュブリカン」は購読者が激減し、1028日についに休刊に追い込まれた。「ル・ソワール・レピュブリカン」はその後も刊行を続けたが、1030日の一面には、検閲をうけて真っ白になったページの真ん中に、「「ル・ソワール・レピュブリカン」は他の新聞とは違う、それは読むに値する何かを提供する。」と大文字で印刷されていた。

サントス=サインスによると、フランスの有力紙「ル・モンド」のジャーナリスト、マーシャ・セリ(Macha Séry)は、2012年に、南仏エックス=アン=プロヴァンスにある「海外県に関する国立資料館」で、「自由なジャーナリストの宣言」と題したカミュの署名記事を見つけ出した。これは「ル・ソワール・レピュブリカン」の19391125日号に掲載するために執筆されたが、直前の検閲によって掲載を禁止され、陽の目を見なかったものである。セリはこれを2012317日付の「ル・モンド」紙に発表した。カミュは次のように書いていた。


「今日、フランスでの問題は、いかにして新聞の自由を護るかではない。問題はこれらの自由に対する圧力をうけて、一人のジャーナリストがどうしたら自由でいられるかを探し求めることである。問題は集団ではなく、個人に関わることなのだ。……

1939年にあって、一人の自由なジャーナリストは、絶望することなく、自らが真実だと思うことのために戦うのだ。自分の行為が事件の動きに影響をあたえることを信じて。彼は憎しみを助長し、あるいは絶望を生むものは一切書くことはない。こうしたことはすべて彼の力でできるのだ。……

水嵩を増す愚劣さの沼には、何らかの拒否で対抗する必要がある。世の中のすべての強制は、不誠実を受け入れるいささか清廉すぎる精神にのみ働きかける。

ごく少数の者しか情報のメカニズムを知らず、彼らは簡単にニュースの正当性を信じてしまう。自由なジャーナリストはこの事実にこそ注意をむけるべきだ。

独立した新聞は情報の出どころを明かし、公衆がそれを吟味するのを助け、頭の詰め物を取りのけ、罵言を払拭し、解説によって情報が画一化するのを避ける必要がある。要はジャーナリストの力によって、真実を人間的尺度に還元するのである。これこそが世の中に嘘がはびこるのを拒否するのに役立つのだ。」


カミュはジャーナリズムに高い理想を託したが、現実はこれとは裏腹だった。「アルジェ・レピュブリカン」の休刊とともに多くの記者が解雇され、「ル・ソワール・レピュブリカン」のつくり手は、カミュとパスカル・ピア以外に14名だけというありさまだった。その上、アルジェは情報源に遠く、情報は契約しているアジャンス・ラジオ(ラジオ通信)に頼るしかなく、ときに政府発表の誤った情報を載せざるを得ないこともあった。

194019日、アルジェ総督は新聞の発行を差し止める法令を発布した。翌10日の夕方、警察は「ル・ソワール・レピュブリカン」社内で、予約購読者宛てに発送される新聞110部を押収し、駅の新聞スタンドやタバコ屋の店頭から合計1051部を回収した。

パスカル・ピアとカミュは後始末に追われた。職を失った記者や印刷工などへの給料の清算を終えると、パスカル・ピアは妻と娘、それに義母を連れて、28日に船でアルジェをあとにした。パリに戻った彼は、「パリ・ソワール(Paris-Soir)」紙の編集長に迎えられ、カミュのために編集部での仕事を見つけてくれた。カミュがパリに行ったのは323日のことである。ただ、カミュの仕事は編集秘書としての編集作業への助言が主で、彼自身が記事を書くことはなかった。

1940617日、パリはドイツ軍によって占領された。このため「パリ・ソワール」は自由地区のクレルモン=フェラン、次いでリヨンへと本拠を移し、カミュもこれに従った。12月には、オラン出身の数学者で、ピアニストのフランシーヌ・フォールと再婚したが、新聞社では物資の不足と購読者の減少から人員整理が行われ、カミュは感謝しつつ退職の道を選んだ。

その後、彼はオランの妻の実家に身を寄せ、私立中学校でフランス語を教えるとともに、公教育から排除されたユダヤ人学生のために哲学の授業を受け持った。そしてこの間も、小説「異邦人(L’ Ētranger)」、評論「シシューポスの神話(Le Mythe deSisyphe)」、戯曲「カリギュラ(Caligula)」の創作を進めた。

「異邦人」がパリの老舗ガリマール社から出版され、文学界にセンセーションを巻き起こしたのは19425月のことである。このときガリマール社の査読委員であるアンドレ・マルロー、ジャン・ポーラン、ロジェ・マルタン・デュ・ガルに原稿を読むように紹介してくれたのもパスカル・ピアだった。

こうして一躍有名になったカミュは、レジスタンの一環として非合法誌「コンバ(Combat、戦闘)」の編集にかかわり、逮捕を免れるために、アルベール・マテ(AlbertMathé)などの匿名で記事を載せた。

カミュはジャーナリストの仕事に矜持を抱いていた。アルジェ時代にこんな言葉を残している。


「ジャーナリストは言葉の保持者だ。彼はときにこの宝物を用いて、自らの国の名のもとに語る。新聞は一国の言語活動〔ランガージュ〕なのだ。」


カミュは言葉が諸刃の剣であるのを十分に自覚していた。その上でジャーナリズムの仕事に矜持を抱いていた。だから彼はジャーナリストとして、人びとの名のもとに語ることを躊躇しなかったのである。(完)


# by monsieurk | 2024-02-25 09:00 |

若きカミュ(1)

このほど月曜社からアルベール・カミュの『結婚――4篇のエセー』を、叢書・エクリチュールの第24回として刊行した。これは2019年に私家版として100部出した訳書の改訂版である。カミュは小説『異邦人(L’Etrenger)』を1942年に出版して一躍世界的作家となったが、それ以前は、生まれ故郷アルジェリアでジャーナリストだった。かつて学術誌『情報化社会・メディア研究』(16号、20204 月)に発表した論考「アルジェのジャーナリスト、アルベール・カミュ」を再録し、2回にわたって紹介したい。『結婚』の4篇のエセーは、カミュがジャーナリストとして活動していた時代に書かれたものである。M.K.


マリア・サントス=サインス著『ジャーナリスト、アルベール・カミュ』(2019、未訳)は、『異邦人(L’Etranger)』で世界的作家となる以前、アルジェリアでジャーナリストだったカミュの活動を掘り起こした労作である。

 カミュが新聞「アルジェ・レピュブリカン(Algerrépublicain アルジェ共和派)」や、「コンバ(Combat 闘争)」に書いた記事は、これまでに、『アルベール・カミュ、ノート3Cahiers Albert Camus 3, Gallimard, 1978)』や『新版アルベール・カミュ全集第Ⅳ巻、 プレイアード叢書(Albert Camus: Œuvres Complètes, tome IV,Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, 2008)』に収録されていて読むことができるが、

サントス=サインスは、本書でジャーナリストとしてのカミュの仕事を詳細にたどり、その特徴を明らかにした。以下、この新書を参考にしつつ、アルジェ時代のジャーナリスト、カミュの一面を描いてみたい。


生い立ち

 

 アルベール・カミュは1913117日、北アフリカのフランス領植民地アルジェリアのモンドヴィで生まれた。父リュシアンは南フランス・ボルドーからの植民者で、ブドウ園の農業労働者(樽造りに従事していたといわれる)、母のカトリーヌ・サンエスはスペインからの植民者の娘だった。

 19147月、第一次大戦が勃発すると父は徴兵され、2カ月後の9月、「マルヌの会戦」で頭に銃弾を受け、1週間後の914日に病院で亡くなった。カミュは1歳だった。

その後母と子はアルジェ郊外の母方の家に移り住んだ。そこはベルクールという貧しい地区で、2人の叔父も同居していた。母は耳が不自由なため沈黙しがちで、家族間の会話はスペインのカアルニア語が混じる方言だった。家には1冊の本もなく、カミュが正式なフランス語を修得したのは小学校に入ってからである。

少年のカミュが熱中したのはサッカーだった。生活は貧しかったが、フランス人、アルジェリア人を問わず大勢の仲間ができた。

こうした家庭事情から小学校卒業後は仕事につくつもりだった。だが彼の能力を見抜いた担任のルイス・ジェルマンが祖母と母を説得し、奨学金を受けられるようにしてくれたお陰で、ビジョー高等中学校へ進学することができた。ただ奨学金からは学費を出すのがやっとで、夏休みには金物工場や船の荷揚げの手伝いなどの仕事に精をだした。

カミュの運命を決めたのは高校2年生、17歳のときに、高校で哲学を教えていたジャン・グルニエと出会ったことである。グルニエはカミュの才能を認め、文章を書くことを勧めた。カミュの方でも、グルニエが出した『孤島(Les Iles)』を読んで感銘を受け、自分も文章を書きたいと思うようになった。

サントス=サインスも引用しているが、遺作となった『最初の人間(Le Premier Homme)』で、カミュはグルニエについて、「ぼくはとても若く、とても愚かで、とても孤独だった(アルジェでのことを覚えておいででしょう?)。あなたはぼくにむきあってくれ、僕がこの世で愛しているすべての扉を開いてくれました。」と書いている。

1932年に、グルニエは学生たちの課題論文と卒業論文をまとめて、雑誌「シュッド(Sud、南)」の特集号として出版したが、そこにはカミュのベルクソン論も掲載された。こうした経緯を経て、カミュはこの年、19歳でバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、アルジェ大学文学部の哲学科に進学した。残念だったのはこのころ結核を発症して、大好きなサッカーを断念しなければならなかったことである。

カミュは1932年~33年の学期に、3篇の論文を「アルジェの学生」誌に発表した。2篇は音楽に関するもの、もう1篇は友人の詩人を論じたものだった。

19346月、カミュは眼科医の娘のシモーヌ・イエと学生結婚し(この結婚は2年後には破局する)、翌1935年には、グルニエに勧められて共産党に入党し、党の文化活動の一環として劇団「労働座」の創設にかかわった。カミュはヨーロッパ全体を巻き込むことになったスペイン内戦をテーマにした「アストゥリアスの叛乱」を仲間と創作して演出し、役者としても舞台に立った。しかし、間もなく党幹部とアラブ人活動家の板ばさみになり、最終的には共産党から除名されてしまう。

カミュは、こうした政治活動の一方、6月には「キリスト教形而上学とネオプラトニスム」と題する論文を大学に提出して学位を取得した。


ジャーナリズムの世界へ


教職に就くことを希望していたカミュに当局が提示したのは、シディ・ベル・アッベスの高校教師の職だった。シディ・ベル・アッベスは、アルジェリア第二の都市オランの南80キロに位置する農産物の集散地で、歴史も古い街だが、カミュは赴任して間もなく辞めてしまった。仕事がきつい割には給料が安く、条件が同級生たちと比べて極端に悪かったからである。

アルジェに戻ったカミュは著作に専念し、19375月には最初のエッセー集『裏と表(L’ Enver et L’ Endroit)』を、友人のエドモン・シャルロが立ち上げた「真の富(Les Vraies Richesses)」書店から出版した。しかし大して評判にはならず、12月からはアルジェ大学附属の地球物理学研究所でデータ整理の仕事の口にありついたが、およそ場違いな職場だった。

 カミュが10歳年上の作家でジャーナリスト、パスカル・ピア(Pascal Pia、本名はピエール・デュラン)と出会い、新聞記者になることを打診されたのは翌19389月のことである。

 当時アルジェリアの主な新聞としては、右翼陣営に属す「ル・デペッシュ・アルジェリエンヌ(Le Dépéche algérienne、アルジェリア通信)」、急進社会党系だが実際は入植者の利益を反映する保守派の「レコ・ダルジェ(L’ Echo d’ Alger、アルジェ情報)」があり、19356月に成立したレオン・ブルムの人民戦線内閣の主張に同調するものとしては、オランで発行されていた「オラン・レピュブリカン(Oran Républicain、オラン共和派)」があった。

首都のアルジェでも、本国フランスや世界の動向について、社会主義の立場に立つ日刊紙を創刊しようという動きが起こり、著名な美術史家エリー・フォールの息子で農業技師のジャン=ピエール・フォールと書籍販売会社経営のポール・シュミットが中心となって出資者を募った。

資金的な目途がつくと、今度は編集長を誰に依頼するかである。フォールは首相レオン・ブルムのかつての協力者ジョルジュ・ボリスの推薦をうけて、パリで発行されている共産党系の新聞「ス・ソワール(Ce Soir、今夕)」で、詩人のルイ・アラゴン、社会学者のジャン=ピエール・ブロックと共に共同編集長をつとめるパスカル・ピアに打診した。この申し出を受け入れたパスカル・ピアは、すぐにパリを発ってアルジェへむかった。

フォールはこれより前にカミュと会って創刊する新聞社で働くことを打診していた。創作に時間を割きたいカミュは、最初のうち乗り気ではなかったが、9月にパスカル・ピアと話し合い、新たに出る新聞でジャーナリストとして働くことにした。月給は2,000フランとカフェの給仕並みの安さだが、カミュとしては午後5時から翌朝1時まで新聞の仕事をして、午前中は眠り、午後には少し自分の時間が持てるという目算だった。

新聞は8ページ建ての日刊紙で、140サンチームで販売された。発行部数は20,000部ほどで、読者の多くは植民者のフランス人だった。40サンチームは現地のアルジェリア人には高すぎたのである。

「アルジェ・レピュブリカン」の第1号は1938106日に発行された。カミュの最初の署名記事が「読書サロン」欄に載ったのは3日後の109日で、記事はのタイトルは「オルダス・ハックスリーの新作『マリア・ディ・ヴェッサ』」である、翌10日は「レマルク著『戦友たち』」、11日「ブランシュ・バラン著『日々の活力』」と、本の紹介記事が続き、12日になって、「社会法に対する反論」と題した報道記事を書いた。人民戦線内閣が認めた賃金の引上げは物価上昇を下まわっており、購買力の増加に少しもつながっていないことを論証した記事であった。

カミュの記事はその後また書評に戻って、20日に「ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』」、23日「ジャン・イティエ『アンドレ・ジッド』」を執筆し、24日には「投票しなかった人たちの視点」を掲載した。創刊から20日弱の間に7本の記事を書いたことになる。

 サントス=サインスは以下のように述べている。


「この新聞はカミュにとってジャーナリズムの学校の役をはたした。彼は「アルジェ・レピュブリカン」で、ジャーナリストとしての倫理を鍛えられた。……彼は間もなく裁判担当の記者となり、法廷での実り多い取材体験は、後の文学作品に多くのものをもたらすことになる。

彼は並行して政治問題と社会問題の調査報道にたずさわり、この分野でも大きな成果をあげることになった。」(続)


# by monsieurk | 2024-02-20 09:00 |

学生新聞

1月下旬、以下のようなメールが送られてきた。


突然のご連絡失礼いたします。

京都大学新聞社のM・・と申します。このたびは、M.K.さんの学生時代について取材させていただきたくご連絡しました。

当紙は20254月に創刊百周年を迎えます。節目に向けて社史編纂を計画しており、その前段階として、歴史を振り返る紙面連載を昨年10月から始めました。時系列で出来事を振り返る「通史」や研究者の方々の論考を載せているほか、各年代のご在籍者の皆様への聞き取り取材も実施しております。

6回となる次回(216日号掲載予定)は1960年代を取り上げる予定です。

掲載内容を検討するなかで、私自身が所属している京都大学文学研究科メディア文化学専修(旧二十世紀学専修)の喜多千草教授から先生のことをうかがい、学生時代の「東大教養学部新聞」について言及されているブログを教えていただきました。

また、当紙で過去にインタビューさせていただいたご縁があることも知りました。ついては、お話をうかがいたくご連絡したしだいです。

具体的には、京都大学新聞とは別の学生新聞として、「東大教養学部新聞」がどのような体制(取材・執筆・印刷・販売)で発行していたのか、当時の学生新聞というものが学内外でどのくらい存在感を持っていたのか、当時をふまえて今後の学生新聞にいかなる可能性・課題があるかなどについてお聞きし、連載内で記事化できれば幸いです。


以下は記事作成のために行ったメールによるインタビューの内容である。


Q. 教養学部の新聞会に入られた動機をお教えいただけないでしょうか(入学以前に新聞づくりのご経験はあったのでしょうか)。


. 高等学校時代は新聞制作の経験はありません。

私が通った東京都立日比谷高等学校では第二外国語の選択の機会があり、学校で周1回フランス語を学ぶとともに、「アテネ・フランセ」で週2回、フランス人の先生からフランス語を学びました。大学受験の外国語はフランス語を選択しました。大学ではフランス文学を専攻しようと決めていました。

教養学部では、フランス語、ドイツ語、中国語で受験した者たちは「外国語既習」というクラスに所属し、フランス語については1年生のときから、パスカルの専門家である前田陽一先生、本郷の仏文の主任教授でラブレーの大家、渡辺一夫先生などからアルベール・カミュやバルザックなどの購読の授業をうけました。

さらに一年先輩の2人の友人と、信濃町にあった教会の神父さんに頼んで、テイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間(Le Phénomène human)』を購読しもらい、自分たちでデカルトの『省察(Méditation)』の輪読も行いました。

 このように私の大学生生活はフランス文学・文化の吸収を中心にしたものでしたが、その一方で時代は政治の季節を迎えていました。

 高校の社会科の担任は「原爆許すまじ」の作曲家の木下航二先生で、屋上でアコーデオンの演奏に合わせて、皆でよく歌ったものです。

入学の翌年1960年には「日米安全保障条約」の改定が控えており、岸信介内閣の下、日米間で10数回の交渉が重ねられ、これに社会党、社民党、共産党、労働組合、そして戦後の学生運動を牽引した全学連(全国学生自治会総連合)が激しい反対運動を展開していました。

 こうした社会状況をしっかりと見定め、学生としてどう向き合うかを真剣に考えるためにも、「新聞会」に入会して仲間と議論する機会を得たいと思いました。さらに新聞作りを通して、自らの思考を文章にする機会を得られればと考えたのです。これが入会の直接の動機です。


Q. 先生は編集長をされたと聞きましたが、東大教養学部新聞の編集長は、紙面内容の検討や新聞会としての意思決定に際して、どのくらい権限のある役職だったのでしょうか。


. 「東大教養学部新聞」は隔週刊行で、記事の内容を統括する「編集長」と財政や庶務をあつかう「総務」という役職を設けていました。会員全員の互選で決まりました。

毎号の取材対象、記事の内容に関しては、すべて部員の合議制で決めておりました。編集長はこの会議を主宰し、かつ記事の内容、表現に関しての責任を取ることが暗黙の了解事項でした。さらに毎号一面に載せる「論説」を書くのも編集長の役割でした。

当時の「新聞会」の雰囲気については、1960年入学の東京外国大学名誉教授で「学問論」が専門の上村忠男氏(私の次の編集長)が、『回想の1960年代』(ぷねうま社、2015)のなかで、こう書いています。


「新聞会の部屋の扉を叩いたのは〔1960年〕4月26日の国会デモに出かけた直後ではなかったかとおもう。

新聞会では、編集長のK・・を中心に、1959年入学組の2年生10名ばかりが活動していた。(中略)これにわたしのほか、1960年入学組10数名が新たに加わって、喧々諤々の議論、部室はいつも活気に満ちていた。

議論は時として激することもめずらしくなかった。なかでも、ブントに所属していたN・・が、編集部員の担当する「斜影」という一面下のコラムで、日本共産党の構造改革派の論客の一人として知られる安東仁兵衛の426デモ当日の行動を批判する記事を書いたさいには、どうやら共産党内で安東らの構造改革路線に同調する立場をとっているらしいG・・がクレームをつけ、一座の空気が一瞬凍りついてしまったことがあった。1127以降顕著になりつつあった全学連内部における主流派と反主流派の対立は、新聞会の部員たちのあいだでの議論にも折りに触れて顔をのぞかせていたのだった。

しかし、そんな場合でも編集長のK・・が仲裁に入って、議論を巧みに収束させていた。(後略)」


当時の新聞会の編集会議の雰囲気はこのようなものでした。

ただ私の編集長時代は、安保闘争を中心とする政治ネタだけでなく、大学の内外で起こっている新しい文化活動にも目を配るように努めました。

映画についていえば、ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」や「灰とダイヤモンド」が評判を呼び、東大の「ギリシア研究会」がギリシア悲劇を日本語で上演する運動を始めていました。日比谷野外音楽堂で行われたギリシア悲劇上演初日には、日比谷通りを「安保反対」を叫ぶデモ隊が通っていき、その声が上演中に聞こえるといった光景が出現しました。学生新聞はこうした新たな傾向に敏感であるべきだというのが編集方針の一つの柱でした。


Q. 新聞会はどのような組織だったのでしょうか。学生のみで運営していたのか、あるいは教員等の関与(運営への参画・編集内容への干渉など)があったのでしょうか。


A.顧問の先生は一応いましたが、私の在籍中、一度もお目にかかったことはありません。新聞の発行は完全に学生の手に委ねられていました。ただ東大ほか他大学の著名な教授、助教授の先生方に原稿を執筆料なしで書いていただいたことは多々あります。これは学生新聞の特権でした。


Q. 京大新聞では、当時1回生が通っていた宇治分校に吉田キャンパスから新聞を運んで販売しており、一般紙をとる余裕のない多くの学生にとってほぼ唯一の情報源だったという話を聞きました。東大教養学部新聞の学内外での存在感や読者からの反響について、ご在籍当時の感覚をお教えいただけないでしょうか。


A.教養学部の学生に関しては、少なくとも半数は私たちの「教養学部新聞」を読んでくれていたと思われます。「安保改定」という国の形をゆるがす問題が最高潮に達する時代であり、反対運動の先頭に立つ「全学連」の動向は社会的に大いに注目されていました。それゆえに、「東大新聞」、「東大教養学部新聞」に限らず各大学の新聞記事と主張は、大変注目されていました。


Q. 学生時代、京都大学新聞との接点・交流はございましたか。


. 「京大新聞」との接触は残念ながらありませんでした。

在京の大学の新聞とは若干の交流がありました。忘れられないのは東京女子大の新聞会と合同で「ダンスパーティー」を企画し、駒場の教室を開放してもらい、ダンスパーティーを開いたことです。

パーティー券は100枚ほど用意しましたが、すべて売れた記憶があります。ただし、わが部員は誰一人ダンスができず、全員が教室の壁を背にして立ちん棒でした。


Q. 京都大学新聞の媒体としての特徴について、どのような印象をお持ちでしょうか。可能であれば学生時代・文学研究科教授時代・現在というそれぞれの時期の印象を、厳しければ、時代を問わずお持ちのイメージをご教示いただけますと幸いです。


A.京都大学に赴任してから、「京大新聞」は毎号購読し、退任前にはインタビューも掲載してもらいました。その際に部室を訪ねたことがありますが、あまり活気を感じなかった印象があります。

京大には「学術」の記者クラブも置かれており、「産経新聞社」の記者時代の司馬遼太郎がここに詰めていたのはよく知られています。こと学術・文化・科学に関しては、豊富な情報源が身近に多くあるはずです。取材の窓口をもっと広げてはいかがかと思います。

さらに現在一般紙が直面している問題、すねはちSNS全盛の時代にあって「紙媒体」が直面している困難に、学生新聞としてもどう対応するかを真剣に検討すべきです。



# by monsieurk | 2024-02-15 09:00 | 取材体験

マラルメの女性たち

 『マラルメの女性たち』(Femmes de Mallarmé, LIENART, 2011)という刺激的なタイトルの本がある。

201135日から6 6日まで、ヴァルヴァンのセーヌ川河畔にある「マラルメ博物館」で催された同名の展覧会に際して刊行されたもので、マラルメが生涯にかかわった女性たちの資料(ドキュメント、絵画、写真)などが収録されている。

 先ず取り上げられているのは、父方の祖母、叔母、母方の祖母、マラルメが5歳のときに亡くなった母エリザベートで、母の死後、マラルメは妹マリアとともに母方の祖父母デモラン夫妻の許に引き取られた。だが2歳違いの妹も13歳で亡くなってしまう。さらに親族としては186321歳で結婚した妻のマリーと最愛の娘ジュヌヴィエーヴがいる。

マラルメはトゥルノン、アヴィニョン、ブザンソンなど地方都市で英晤教師をしつつ詩作に打ち込んだが、187110月にパリのコンドルセ高等中学校の英語の嘱託講師の職を得て、待望の上京をはたした。その後18734月に、近くにアトリエを構える画家エドアール・マネと知り合い親交を結んだ。マラルメにとっての運命の女性であるメリー・ローラン(Méry Laurent)と出会ったのは、マネのアトリエであった。

メリーはアメリカ人の歯科医エヴァンス博士の囲われ者だったが、マネとも関係があり、マネの死後は、マラルメはなにかにつけて彼女の許を訪れるようになる。本書がメリー・ローランに多くのページを割いているのは当然で、彼女はマラルメにとって特別な存在であり続けた。

上京したマラルメの交遊関係は大きく広がり、才能に溢れた女性たちと出会う機会も増えた。

エドアール・マネの弟ユジェーヌ・マネの妻である画家のベルト・モリゾ、二人の娘ジュリー、従妹のポール・ゴビヤールに、ジャニー・ゴビヤール。アメリカ人の女性画家マリー・カサット、サロンを開催していたアンヌ=マリ・ド・カリアス、サンスにいた若き日に、彼女がまだニナ・ガイヤールと呼ばれていた娘時代に、仲間たちとフォンテーヌブローの森へ遊びにいったことがあった。その後エクトール・ド・カリアス伯爵と結婚したが、すぐに離婚してサロンを開いていたのである。彼女自身も素晴らしいピアニストだった。同じ音楽家ではオーギュスタ・オルメスがいた。彼女もまた卓越したピアニストで、その豊かな金髪はマラルメのお気に入りだった。

 ピアニストとしてはもう一人ミシア・ナタンソンがいる。彫刻家のシプリアンの娘としてサンクト・ぺテルスブルクで生まれた彼女は、子ども時代をベルギーに住む母方の祖母の許で過ごした。祖母はヴァイオリニストのA.F.セヴェの娘で、家のなかは音楽が溢れていた。そうした環境にあってミシアは早くからピアノを習った。父に従ってパリに来た彼女はガブリエル・フォーレの弟子となり、やがて雑誌「白色評論」の刊行者タデ・ナタンソンと結婚、雑誌と関係の深いナビ派の若い画家たち、ボナール、ヴュイーヤール等と知り合いになった。ナビ派の画家たちはマラルメの詩や詩論から大きな影響をうけており、ミシアは夫ナタンソンとともにマラルメとも親交を結ぶことになった。

 彼らの交流が一層強まったのは、マラルメが1896年にヴァルヴァンの別荘の近くのラ・グランジェットにある家を紹介したときからである。ナタンソン夫妻はすぐに購入して別荘にした。このときから、ナビ派の画家たちをはじめ多くの画家や音楽家が訪れるようになり、そんな折マラルメも木靴を履いてやってきて、食事を共にし、ミシアが弾くベートーヴェンやシューベルトを弾くピアノに耳を傾けた。ちなみにミシアはココ・シャネルの親友で、プルーストやコクトー、ピカソ、エリック・サティ、ラヴェル、ストラヴィンスキ―の友だちだった。いまはサモロにあるマラルメと同じ墓地に眠っている。

 

マラルメが強い関心をもち、インスピレーションを得た女性に舞踏家のロイ・フラーもいた。

ロイ・フラー(本名マリー・ルイーズ・フラー)は1862年、アメリカ・シカゴの郊外フラーズバーグに生まれた。子役として舞台のキャリアをはじめ、その後はバーレスクやヴォードヴィルの舞台を踏み、またサーカスのショーでダンサーとして、振り付けとダンスをするようになった。

 フラーの舞踏は自然な動きが特徴で、絹の薄いコステュームをまとい、それを自身でデザインした多色照明で照らして幻想的な舞台を演出した。しかしこの前衛的なダンスはアメリカの観衆にはさして受けなかった。そこで1892年にドイツの興行師の誘いでベルリンに赴いたが評判にならず、パリの「フォリー・ベルジェ―ル」に出演して「蝶」を上演すると、その幻想的な舞踏が芸術的前衛を熱狂させることになった。ヨーロッパの伝統的なバレエとはまったく異なる独創的なバレエで、照明の効果と棒につけた薄布による衣装の動きによって、舞台上に幻想を生み出すものだった。それは当時ヨ―ロッパを席巻していた芸術運動「アール・ヌーヴォ」を特徴づける「渦巻運動」の具象化でもあった。彼女が「アール・ヌーヴォの女王」と呼ばれた所以であった。

 マラルメがロイ・フラーの舞踏を最初に取り上げたのは、ロンドンの「ナショナル・オブザーヴァー」紙の1893513日号であった。フランス語で掲載された記事のタイトルは「舞踏芸術についての考察とロイ・フラー」で、この記事は他のものと共に編集されて、 1897年に刊行された『ディヴァガシオン』では、「もう一つの舞踏論 バレエにおける背景 最近の一事例から」とのタイトルで収録された。書き出しは、――

「ロイ・フラーに関しては、彼女が舞踏の動作によって、薄布がひろがり、またそれを身体に纏いつかせることについては、さまざまの記事で、幾つかは詩篇だが そのすべては語られてきた。


この作業は、発明としては、こうした用いられ方でなくとも、芸術的陶酔、そして、同時に工業的な完成を含んでいる。


何枚もの布の恐るべき沐浴で、輝かしく、冷たい、形を生み出す女は気を失う。彼女は旋回する幾つもの主題を表現するが、それを目指す横糸は遠くへ伸びて花開く。巨大な花弁にして蝶、砕け散る波、これらすべては鮮明で基本的な次元のものだ。彼女が目覚ましい早さで変るさまざまなニュアンスに入り混じりつつ、ファンタスマゴリア(酸化水素の照明)によって、夕暮れや洞窟の幻覚を変化させるのは、現れては消える情念の動き、喜悦や喪の悲しみ、さらには怒りである。それらをプリズムを通した光のように、荒々しくあるいは徐々にぼかしながら動かすためには、一つの人工的な仕組みによって大気にさらされたような魂の眩暈が必要である。


一人の女性が、舞い上がる衣装を力強く幅広い舞踏に結びつけ、それを無限に、自己の拡大として支えるまでに至るということ――


学ぶべきことはこの精神の息吹の効果に含まれている――


この異国情緒豊かな幻によって、天真爛漫かつ確信をもって、〈バレエ〉という、わたしに言わせればポエジーの優れて演劇的な形態になされた贈り物を、わたしはこの上なく貴重であると言明する。(後略)」(Œeuvres complètes Ⅱ、pp.174-175


ロイ・フラーのダンスは古典的バレーと異なり、舞台装置などが一切ない舞台で、棒の先につけた幅広いモスリンの薄絹を拡げたり閉じて身体に巻きつけたりして踊るパフォーマンスで、その動きを変化する多色の照明が空間に浮かび上がらせた。マラルメは身体とヴェールの動きで空間に出現する光跡が、詩と同じ「魂の眩暈」を呼び起こすことに感動したのである。

『マラルメの女性たち』には、ジャン=レオンゲロームの油彩《ロイ・フラー》(1893年、ジョルジュ・ガレ美術館蔵)、マクニール・ホイスラーのリトグラフ《踊る娘》(1889年頃、個人蔵)、イザイア・ウェスト・テイバーのアリストタイプ《ロイ・フラー 踊る》(1897年、オルセー美術館)の3点が掲載されている。

ネット上では、https://www.pinterest.jpfutaba4107〉ロイフラー、で見ることができる。

また2017年4月に公開されたステファニー・ディ・ジュースト監督の映画「ザ・ダンサー(The Dancer)は、ロイ・フラーを主人公にしたものである。フランスのミュージシャンのソーコが主人公フラーを演じた物語は、稀代のダンサーの生涯を忠実に描いたものではないが、映画のなかで披露されるダンスは可能な限りオリジナルの復元をこころみたものである。一世を風靡したロイ・フラーの、動作、衣装、照明、音楽が一体となって構成される最初の総合芸術が見事に表現されている。




# by monsieurk | 2024-02-10 09:00 | マラルメ
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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