人気ブログランキング |

ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

マラルメの肖像作品


 詩人ステファヌ・マラルメの肖像については、多くの画家、彫刻家、写真家が作品を残している。その代表的なものを集めた展覧会『マラルメの肖像~マネからピカソまで~』が、2013年に、「県立マラルメは博物館」で開かれたことは、このブログで紹介したことがある(2014.04.092014.05.21まで15)

これから紹介する3点の肖像は、これとは別に、必要や趣味で独自に制作してもらったもので、1点を除いて披露するのは、これが初めてである。

先ずはすでに発表した1点で、1994年(平成6年)9月に丸善出版社から出版した、『マラルメの火曜会~世紀末パリの芸術家たち~』の表紙絵である。

マラルメの有名な火曜会の様子を扱った一冊で、そこに集った詩人、作家、画家たちとマラルメとの交流を描いたものだが、画家の中地智氏は、1876年にマネが描いた《マラルメの肖像》を参考にした詩人の横顔を、印象的な赤の線で描き、その周囲に、この本に登場する、画家のマネ、作曲家クロード・ドビッシー、女友だちのメリー・ローラン、娘のジュヌヴィエーヴを囲む娘たち等々の絵や写真をコラージュして制作してくれた(21.7cm×17.5cm)。

d0238372_09423315.jpg

この本は有名な「マラルメの火曜会」の実態を初めて詳しく紹介したものとして好評だったが、出版社の都合でながらく絶版だったが、今年20197月、丸善出版から25年ぶりに電子本として刊行された。この際に誤字などを若干修正して、今後はいつまでも読んでいただけることになった。中路氏制作の表紙絵もそのまま再現されている。といった

2点目は切り絵作家、浜田夏子さんに依頼して特別に制作してもらった作品で、黒く浮き出した線はすべてつながっている。浜田さんと出会ったのは、千葉の幕張ベイタウンにある画廊「KiKi」の展覧会であった。当時は幕張に本部がある放送大学に勤務していて、自宅から通うのには片道2時間以上かかり、大学にも近い幕張ベイタウンにマンションを借り、週末に自宅へ戻るといった生活だった。

高層マンションが幾棟も立ち並ぶ幕張ベイタウンは、学校、幼稚園、さまざまな飲食店などもあり、快適な居住空間だった。わたしたちのマンションがあったパティオス20番街の1階には、「ヴァン・ウタセ(打瀬20)」と地名をそのまま店の名前にしたフランス料理屋があり、夕食前には階段を降りて、アペリティフとお好みの前菜を頼むといった贅沢もできた。

画廊「キキ」は3ブロック先のパティオス17番街にあり、若手の作家の作品を紹介することに力を入れていた。2005年の春だったと記憶しているが、画廊をのぞくと、切り絵の作品が展示されていた。1.5メートル×2メートルはある大作で、さまざまの表情をした人物50人ほどの半身像が、どれも同じ大きさに切り出されたものが連ねられた作品だった。登場人物はすべて作者が出会った人たちだという。画廊の経営者にきくと、作者はまだ若い女性の切り絵作家とのことだった。早速紹介してもらい、数日後に画廊でお目にかかった。

浜田さんは当時、京葉線の二駅先の稲毛海岸に住んでいて、何回か打合せをしたあとで、写真家ナダールが1895年に撮影したマラルメの肖像写真をもとに、この《切り絵、マラルメの肖像》(15.6cm×10.6cm)を作ってくれたのである。晩年を迎えたマラルメだが、ナダールの写真以上に鋭さがこもっていて、大変気に入っている。

d0238372_09470822.jpg



その後、放送大学を退職し、幕張からは離れたこともあって、浜田夏子さんとは連絡が取れていないが、切り絵作品の制作を続けておられるだろうか。

3点目は京都の「三楽会」で篆刻まねごとを習っていたとき(ブログ「京都三楽会」2019.07.12参照)の師匠である中尾滋男さんに頼んで彫ってもらぅた《マラルメの横顔》(5.6cm×7.3cm)である。これも1895年ころのナダールの写真をもとに制作していただいた。これもマラルメの特徴がよく出ていている上に、マラルメの肖像の篆刻はおそらく世の中にこれ1点だと思う。

d0238372_09483955.jpg


# by monsieurk | 2019-08-05 21:35 | マラルメ

木村荘八と牛肉屋「いろは」⑤

「いろは」開業


木村荘平が川路利良の召しだしをうけて上京したのは、牛肉の消費が急に高まったときである。一度神戸にもどった彼はこうした牛肉事情を調べた上で再度上京しようとした。ところがここで予期しない事件がおこった。五月十四日、参議兼内務卿の大久保利通が、出勤途上の紀尾井町で、石川県士族島田一郎たち六名に刺殺されたのである。彼ら実行犯は新聞社に「斬奸状」を送って、暗殺の理由と今後も除くべき人物の名前をあげていて、そこには大久保の腹心である川路に名前もふくまれていた。事件の背景には、前年の明治十年、維新の大功労者西郷隆盛をしりぞけて新政府の権力をにぎった大久保たちに厳しい世論の力もはたらいていた。

この変事にもかかわらず、荘平は翌六月予定通り上京して川路に面会すると、公営の屠殺場の払い下げをはたらきかけた。中川屋嘉兵衛がはじめて私設の処理場を設けたときに周辺住民の反対をうけたことは先にのべた通りだが、その後も食肉の流行とともに全国各地で同じような騒動が頻発していた。

そのうちに病死した牛を売る不心得者まで出現して、警視庁は取締にのりだし、明治十年五月には民営の処理場を廃止する命令をだした。その結果、東京府下の処理場は警視庁直轄の千住の一カ所になった。しかし官営の処理場はしょせん武士の商法でうまくいかず、責任者の川路はこの運営を木村荘平ほか二名に払い下げることにしたのである。明治十二年四月のことで、総額は一万七千円あまり、支払いは三年年の月賦という好条件であった。

当然ながら関係者からは猛烈な反対の声があがった。政府はそれまでの民営の処理場を閉鎖して官営とし、その上で今度は既得権を無視してどこの誰とも知れぬ木村某にそれを払い下げるというのは癒着以外のなにものでもないというのである。当然の声であった。

困った政府は一度は官制に限るとした処理場を、私営のものも認めるとした。この変更をうけて、多くのものがこの分野に手をあげることになった。それほど維新後の肉食熱は高まっていたのである。

荘平のライヴァルには、鹿児島から上京して銀座で煙草店「天狗煙草」をかまえて大当たりした岩谷松平や(彼については永井龍男『煙よけむり』に詳しい)、近江出身で米問屋「米久」を開いていた竹中久治などがいた。彼らも時流を見抜いて東京に出てきて処理場を営むとともに、やがて「牛鍋屋」を開くことになる。

木村荘平は彼らとの激しい競争のなかで着々と手を打った。政府は明治十年九月に、三田四国町(現在の慶応義塾の前にあたる)に育種場をもうけ、西洋野菜の栽培をおこなうととみ、牛、馬、羊、豚を飼育して、種つけも行っていた。文明開化の世にふさわしい食物の生産に役立てようとしたのである。

これに目をつけた荘平は、またも川路の線から働きかけてもらい、勧農局(のちの農林省)の許可をえて、三田育種場の一部を借りうけて、そこを動物市場とするとともに、駿馬を育てる興農競馬会社を設立した。興農競馬会社の初代幹事長は陸軍の将官である野津道貫、二代目は西郷従道が就任したが、これはあくまで名誉職であった、実権は幹事長代理で会計長の木村荘平が握っていた。彼はここで春と秋の二回、大競馬を催して明治天皇も見物に臨席したほどであった。

三田四国町はかつて松平土佐守や松平阿波守など四国の大名の屋敷があったところだが、維新の戦乱のなかで焼打ちにあってからは、放っておかれたために草ぼうぼうの原っぱとなっていた。かつては町の北東部に薩摩の上屋敷もあったところから、土地の人たちが「薩摩っ原」と呼ぶ草ぼうぼうの場所であった。

政府はこの広大な場所を利用して動植物の育種場を設けたのだった。荘平は近くの空き家のまま残されていた大名屋敷を借りうけ、手をいれて自宅にしたうえで、商売の基点としたのである。彼はここに神戸から連れてきた内妻のマサと長女の栄子を住まわせ、さまざまな事業を起こすとともに、本業である牛鍋店「いろは」を開いた。牛を育て、野菜をつくり、それらを食する店をもったのは、上京後三年がたった明治十四年末のことである。

『木村荘平君伝』には、このころを回想したマサの談話が収録されている。

「妾が木村と結婚しましたのは二十八歳の時で、木村が当年六十六歳、妾が取て六十五歳に成りますから、丁度三十八年前でムいます。妾は元から、女でも自分が働く商売が好なものですから出亰すると直ぐ、三田四国町で小屋見たやうな、いろは牛肉店を出しました。それから第二、第三と仕合よく多くの支店を出すやうになりましたのです。」

荘平は処理場や競馬のほかにもさまざまな事業で忙しく、「いろは」の店の切り盛りはすべてマサに委ねかれていた。店で供するものを牛鍋一つにしぼったのもマサの才覚だった。なお荘平が伏見に残してきていた妻は明治三十年ころに亡くなり、それを機会にマサが正妻となったのだった。


将来の画家、木村荘八の誕生はこれからだが、続編はしばらく置いて書き継ぐことにする。


# by monsieurk | 2019-07-31 20:40 | 美術

木村荘八と牛肉屋「いろは」④


文明開化


明治新政府は近代化にむけた新たな政策を矢つぎ早にうちだした。明治の文明開化を象徴するものとしては、断髪、牛肉、洋服があげられるが、明治二年(一八六九年)には横浜の洲干町(現在の中区弁天通り五丁目)に、最初の西洋風床屋「ふぢどこ」が出現した。はじめたのは小倉虎吉で、「横浜毎日新聞」に店の広告をだした。同じころに東京銀座にも散髪床が店開きをし、この年八月には政府から散髪自由の布告がだされて、県知事や官吏はその意を体して断髪を奨励し、翌明治三年三月二十日には明治天皇が頭髪を切り、皇后も鉄漿をとって眉墨を落とした。

洋服の流行も明治天皇のイニシアティヴで行われた。明治二年に、イギリスの皇太子エディンバラ公が来日することが決まると、天皇は明治三年春に、山城屋和助に洋服をつくるように命じた。山城屋はほかの六人の日本人と外国人のブランを相談して、舶来の黒ラシャで半マンデル型の三つ揃い一組と長マンデル型の洋服をつくった。

翌四年の夏、政府は官吏の制服についての会議を宮中でひらいた。出席したのは西郷隆盛、三条実巳、岩倉具視、伊藤博文、大隈重信など藩閥政府の重鎮のもかに、宮中の役人や神祇官も出席して、会議は様相派と烏帽子直垂派にわかれて大議論になった。しかし、「朕、今、断然その服制を改め、その風俗を一新し、祖宗以来、尚武の国体を立てんと欲す。汝、近臣、それ朕が意を体せよ」という一言で洋服ときまった。明治六年に海外から輸入したラシャは、百二十二万三千円あまり、フランネル二十二万四千円余りと急増した。

明治五年三月十日からは、御茶ノ水の聖堂ではじめて博覧会が開催されて、名古屋城の金の鯱が出品されて人気を博した。八月二日には新たに学制が布かれた。小学校を上等、下等にわけて、男女は六歳から九歳が下等、十歳から十二歳を上等としたが、二十歳をすぎた者も入学するという風景が出現した。九月十二日、東京新橋と横浜の間の鉄道の開通式が行われ、出席した天皇は洋服ではなく衣冠束帯の姿ではじめて汽車にのった。当時は一日四往復で、運賃は一等が一円十二銭五厘だった。

そして十一月九日からは太陽暦が採用され、それまでの陰暦は廃止された。このために十二月三日が明治六年一月一日となったので、大晦日がこの年はなく、掛け金を取りそこなう心配する商人も多かった。

明治天皇の膳にはじめて牛肉が供されたのも明治五年一月二十四日である。大久保利通の進言によるものだった。これを機に政府は食肉を奨励することになった。四月には僧侶の肉食妻帯がゆるされることになり、このとき敦賀県がだした通達書には、牛肉の儀は人生の元気をまし、血力を強壮にする養生物であり、兎角、旧習をまもって、牛肉はけがれがあり、神前などをはばかるなどというのは、「却テ開花ノ妨碍ヲナス輩不堪哉ノ趣、右ハ固陋因習ノ弊ニミナラズ、方今ノ御注意ニ戻リ以ノ外ニ候」といましめている。

明治初年の東京府下の一日の屠牛は一頭半であったが、明治五年末には二十頭となった。これは一人半斤として五千人分に相当する量である。明治六年には、牛肉商規則という官令がだされ、翌年には、「肉食ノ開クルヤ、上ハ大臣ヲ始メ下民ノ吾々迄之ヲ嗜ムニ、就中牛肉ハ人ノ健康ヲ助ケ補益タルコト真ニ験アリト雖モ其肉ニ善悪アリテ、悪肉ヲ喰フトキハ大害立処ニ至ル、亦畏ルベキナリ。故ニ本年格別御世話在ヲセラレ府下六大区、結社ヲ設ケラレ、牛肉商人悉ク其社ニ入ラザルハナシ」という記事が新聞にでた。東京府下の牛肉店が結社をつくり、すべての店は県の許可の札をかかげて、品質を保証した牛肉を売ることにしたのである。


# by monsieurk | 2019-07-28 15:15 | 美術

Fridays for Future

 地球上のいたるところで、異常気象現象が起こっている。フランスも例外ではなく、725日、パリでは気温が摂氏42.6度を記録した。娘たち一家が住むトゥルーズでも、6月以来、30度を越える日が続いていて、プールはあっても冷房設備のない家で過ごすのは大変だとメールで伝えてきた。

 そんな中で、723日にフランスの下院(日本の衆議院の当たる)で、一人の少女が講演して注目された。スウェーデン生まれの16歳の高校生、グレタ・トゥンベリ(Greta Thunberg)さんで、講演会は環境派の議員の招きで実現した。彼女は議場で、「緊急を要する気候変動や環境問題を議論するとき、妥協的な政治はあり得ない」と語り、世界各地で起きている異常気象を直視するように呼びかけて、「いまや世界が一緒に取り組まなければならない」と訴えた。

 フランスで高温の日々が続く中、彼女の訴えは十分説得力をもつと思われるが、野党の共和党や極右の「国民連合」の一部の議員たちは講演会に出席しなかった。その理由として、トゥエンベリさんたちの運動を、「感情に訴える新手の全体主義」、「環境ビジネスの手先」などとし、「環境運動に偶像はいらない」と主張したが、彼女はこれに対して、「たとえ子どもたちの言い分に耳を貸さないとしても、科学が示す結論には従うべきだ」と反論した。

 日本ではあまり知られていないが、グレタ・トゥンベリの運動には、いまや世界120カ国の100万人以上の若者が参加している。

発端は、彼女が昨年(2018 )の夏に、たった一人で始めたストライキだった。それからの経緯について、フランスでよく読まれているCourrier international(「国際通信」、https://www.courrierinternational.com)の1408号(2019.3.14発行)の特集などを参考に紹介する。

 グレタ・トゥンベリの母国スウェーデンでも気候変動の兆候は著しく、これに積極的な手を打とうとしない政府に抗議するため、彼女は毎週金曜日の授業を欠席して、学校を休む「Fridays for Future(未来のための金曜日)」を始めた。「もし何もしなければ、近い将来失われてしまう未来のために、なぜ勉強しなければならないのか?」という素朴だが、深刻な疑問が彼女を突き動かしたのだった。キャンピング・シートに一人坐り込んで始めた抗議行動は、すぐにマスメデイアが取り上げ、世界中で知られることになった。

昨年(2018)12月、国連がポーランドで開催したCOP24(国連気候変動枠組み条約)に招待され、今年1月のダボスの経済フォーラムにも招かれた。その一方で、ベルギーの環境大臣は、情報機関「国家保安部」の情報として、「グレタの背後には過激な環境保護団体がついている」と発言したが、その後「国家保安局」がこの情報を否定したため、環境大臣が辞任するという出来事も起こった。そして721日には、彼女に「自由賞(Freedom Prize)」があたえられた。

この「自由賞」というのは、第2次世界大戦に従軍したフランスの退役軍人レオン・ゴーティエ氏とアメリカの先住民チャールズ・ノーマン・シェイ氏が創設したもので、第2次大戦のノルマンディ上陸作戦の精神を称揚して作られた。7月21日の授与式が、フランスの北西部の都市カーン(Caen)で行われたのも、ここが連合軍の上陸作戦「D-Day」の舞台となったオマハ・ビーチに近いノルマンディの中心都市だからである。そして授与式の翌々日の23日に、国民議会での講演会となったのである。

「自由賞」には25000ユーロ(凡そ300万円)の賞金がついているが、グレタ・トゥンベリさんは、「この賞はわたしのものではない。Fridays for Future 運動全体に対するものだ」として、賞金はすべて、気候変動の影響を受けている地域を支援する4つの団体に寄付する」と語っている。


『木村荘八と「いろは」』④は次回に掲載の予定。


# by monsieurk | 2019-07-25 12:41 | フランス(社会・政治)

木村荘八と牛肉屋「いろは」③

食肉の風習


慶応が明治と変わって間もなく、荘平は親戚の娘と結婚したが子宝にめぐまれず、養子として荘次郎をむかえた。明治三年、伏見の青物問屋の店と住まいを荘次郎に譲ると、妻も残して一人神戸に行き、栄町で製茶貿易の店をひらいた。資本金は三十万円、大阪の豪商鴻池善右衛門などを共同出資者として、実質的には彼がすべてを取り仕切った。

 神戸港に汽船回漕問屋の丸正を開設したのもこのころである。『東洋実業家列伝』には、次のようなくだりがある。

「又同年(明治 年)県下の区戸長及び人民の請求に依り荷為替特約法を設け因伯沿海より大阪へ回米の便利を開く事に尽力して其功を奏せり」、「由来山陰の地は交通不便の国多く、就中鳥取県の如きは東西南の三面は山岳であつて、北方は日本海に面せる海浜砂漠で良港に乏しく、運荷は甚だ不便であるが、斯る偏僻の地に於て夙くも京阪との聯路を計りたる氏の労や多とすべきである。」

 こうした文章から浮かんでくるのは、世を見る目をそなえ、利にさとく、行動力にすぐれた商人の面目である。そうした木村荘平に、新政府の大警視(警察庁初代長官)となった川路利良から呼び出し状がとどいたのは、明治十一年三月のことである。川路と荘平は戊辰戦争のとき、かたや卒族大隊長として、他方は御用商人としてともに戦場をかけめぐった間柄だった。川路は準士分である与力の息子だったが、激動の幕末での活躍が認められて新政府の要人の一人となっていた。

 川路が木村を呼んだのは、当時流行しつつあった食肉を衛生的に普及させるために一肌脱いでほしいというもので、そこには伏見の戦いで世話になった荘平にむくいようという意図もこめられていた。この勧めに乗るとすれば、荘平はいま手がけている製茶の事業を手放さねばならず、商人として損得を計算しなければならない。考える時間が欲しいといってこのときは、いったん神戸に帰った。

 江戸時代にも各地に馬肉や野鳥の肉を食べさせる店はあったが、牛肉を食べさせる店は珍しかった。福沢諭吉の『福翁自伝』には、彼が大阪の緒方塾にいた安政のころ、大阪には二軒の牛鍋屋があり、塾生たちは平気で通って食べたが、そるときそのうち難波橋の牛鍋やの主人から豚の屠殺をたのまれ、それとひきかえに頭をもらって帰ってきたという話がでている。この頭は解剖的に脳だの眼だのを能く調べて、散々いぢくったあとを煮て食ったことがあると書かれている。

 文久二年の『横浜ばなし』には、異人屋敷についての記述についで、「外に、異人の食料牛屋二軒あり、毛物を商ふは異人なり、此処にて牛を屠り、皮を剝ぎ、大きなるかぎにてつるしておくなり」という記事がみえる。

もともと海の幸にめぐまれた日本では、仏教思想の影響で獣肉を食することを忌む習慣があり、食べるために牛や馬を育てる畜産は未発達であった。だが黒船とともにやってきた文明開化の風は、そうした食習慣をも一変させた。横浜や神戸が開港して、外国人の居留民が住みつくようになると、彼らのために牛肉を供する店ができた。慶応三年十二月に、横浜で出版された「万国新聞紙」第九集の広告欄には、「各国公使用弁の為め牛肉店高輪へ開候処、御薬用旁緒家様より御用被仰付 日に増し繁栄仕」とある。外国の公使のために開いた牛肉店で、江戸の諸大名も牛肉をもとめて、それを薬として食べていたことがわかる。

この広告を出したのは中川屋嘉兵衛で、最初は横浜の八十五番館から牛肉を仕入れて、それを江戸まで徒歩で運び、外国の公使館などに納めていた。しかし道中で肉が腐りはじめ悪臭をはなつ。いっそ江戸で屠った方が得策だと考えて荏原郡芝白金村の畑の物置を借りて私設の屠殺場をつくった。しかしすぐに村人が騒ぎだし、わずか二、三頭を屠っただけで場所を当時は無人の本芝海岸に移した。これが最初の屠殺場だとされる。

食肉をタブー視する風習は維新後には一変する。仮名垣魯文が明治四年に出した『牛店雑談安愚楽鍋』には、ちょんまげ姿の人物と、ざんぎり頭で洋服をきた男が牛鍋を前に酒を酌み交わす絵に、「ねえさん、鍋は飯のときとして、ソップの吸下地で、葱を細くそいで、鞍下の極といふところを、そぼろに刻んでヨ、ぱらぱらと入れて、二人前持って来な、そしてお酒はいゝのを二つ」という吹き出しがつけられている。鞍下とはロースのことで、スープで味付けした、牛肉と葱を鍋で煮てたべたのである。


# by monsieurk | 2019-07-23 14:53 | 美術
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31