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ムッシュKの日々の便り

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人命か報道かⅠ

NHK在籍中の最後に、「メディアは今」という番組のキャスターをつとめた。1994年から96年までの2年間、毎週木曜日の午後8時から45分間、ETVで放送したもので、報道の自由、戦争報道、犯罪報道のあり方、視聴率至上主義の弊害、検閲といった、現在のメディアが抱える問題をメディア自身が検証するユニークな番組であった。

そのなかの一篇に、1994 630日に放送した『人命か報道優先か~ピュリッツァー賞・写真論争』がある。これはその後「丸善株式会社」の「現代社会の倫理を考える」叢書の一冊として書いた『マスコミの倫理学』のなかで取り上げたので、ここに再録する。


「抗議を受けた写真


ジャーナリストとして仕事をしていると、一人の人生が危機にさらされている場面に出会うことが少なくない。それをどんな立場で取材し、伝えるか。きびしい選択をせまられることもしばしばである。

ジャーナリストに与えられる最高の賞といわれるアメリカのピュリッツァー賞を受賞した一枚の写真をめぐっても、同じような議論が起こったことがある。その写真とはアフリカのスーダンで撮影されたもので、やせ衰えた一人の少女が地面にうずくまっている。そしてその死を待つように、一羽の禿鷲がじっと少女をうかがっている様子を至近距離から写したものであった。この写真が新聞に掲載されると、読者から多くの手紙が寄せられたが、その多くは写真を撮る前に、なぜ禿鷲を追い払わなかったのかと、写真家を非難するものであった。そしてこれをきっかけに、人命尊重か報道優先かという議論が起こったのである。

ピュリッツァー賞は全米の新聞に掲載された記事や、社説、写真など14の部門で選ばれたものに与えられるもので、ジャーナリズムのアカデミー賞ともいわれ、これに選ばれることは最高の名誉とされる。1994年ドの企画写真部門では、南アフリカ出身のフリーランスのカメラマン、ケビン・カーター(当時32歳)が受賞した。カーターはそれまでジャーナリストがほとんど取材できなかったスーダン南部に潜入した、干ばつと飢えに苦しむスーダンの現実を取材した。スーダンはアフリカ最大の面積をもつ国で、人口は2700万人。その75%を占めるイスラム教徒が政権を握っているが、南部を中心に住むキリスト教徒との間で、10年越しの内戦が続き、国土は荒廃していた。そうした内戦の現実を集材するなかで、撮影された一枚の写真「禿鷲と少女」は、200点におよび候補作品から特別に優れたものとしてピュリッツァー賞を受賞したのである。

写真はスーダンのアヨド村の帰宅で撮影され、やせ衰えた幼い少女が近くの国連が設けた食料センターへ向かう途中に、禿鷲に狙われているところを撮っていた。幼い少女が禿鷲に狙われるほどの深刻な飢餓を撮った一枚の写真は、当時ソマリアやボスニアに集まっていた世界の目に、スーダンの現実を知らしめた点で大きな意味をもっていた。

この写真は最初、1993326日金曜日の『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載されたが、その翌日からニューヨーク・タイムズは読者かたの反響の嵐に見舞われた。わたくしとスタッフはこの一枚の写真をめぐる議論を取材すべくアメリカへ飛んだ。


ニューヨーク・タイムズのこのときの写真部デスク、ナンシー・ビュルスキーは、読者の反響についてこう語っている。

「読者はこの写真にひどく心を動かされ、ショックを受けたと同時に、子どもがその後どなったかと心配していた。そうした読者の疑問に答えるために、編集部は『お知らせ』を掲載した。」

こうして写真掲載の4日後に、次のような「編集者のメモ(エディターズ・ノート)」を掲載したが、こうした措置はニューヨーク・タイムズの長い歴史のなかでも異例なことであった。

「去る金曜日に記事とともに掲載したスーダンでの写真は、アドヨの食料センターへ行く途中、飢えからうずくまる一人のスーダンの少女を写したものである。一羽の禿鷲が彼女の後ろからジッとうかがっている。

大勢の読者からこの少少女がその後どうなったかと問い合わせがあった。この写真を撮ったカメラマンは、禿鷲が追い払われたあと、ゆっくりと歩く力は十分にあったと伝えている。だが彼女が食料センターにたどりついたがどうかは分からない。」」()


# by monsieurk | 2023-12-20 09:00 | 取材体験

梶井の文学碑Ⅱ

梶井基次郎の文学碑は、湯川屋とは道をはさんだ反対側の斜面の途中に建立された。除幕式前日には、かつて「青空」の同人だった人たちなどが湯川屋に一泊して、思い出話にひたったとのことである。湯ヶ島滞在中に梶井が夢中になった宇野千代さんも参加するのを楽しみにしていたが、残念ながら病気で欠席だった。

次は文学碑の制作を手がけた西瀬父子のうち、息子英行氏の文章である。


「川端康成・中谷孝雄両先生の発起で、湯ヶ島に梶井基次郎文学碑建立の計画があるので設計と制作を――と、かつて埼玉の新しき村に私の名づけ親でもある武者小路実篤先生の詩碑を制作したゆかありで、皆美社の関口・石川両氏から電話があった時、私は宇野千代先生の那須山荘に刻んだ地蔵菩薩像の開眼供養に参列していた。奈良に帰った老父から建碑の話をきいて、中谷先生同様故佐藤春夫先生と老父が縁故深かった因縁もあって、何か宿命的なつながりを感ぜざるにはおかれなかった。

梶井さんが大阪住吉区天王寺町で逝かれたころ、私一家は偶然その近くに居を移し、現在勤めている大学も梶井さんが晩年をすごした伊丹の稲野に隣接する池田氏にあって、池田一帯は湯ヶ島同様昔から猪が名物、古典落語にまでなっている。そこで私は伊丹を流れる猪名川の水源・能勢谷の堅牢で粘り強い黒御影石がふさわしと考え、嵯峨の石寅社長や梶井さんと同じ明治三十四年生まれの老父と、連日泥ンこになった自然石探しに猪の出没する能勢峡谷にはいる一方、新聞二ページ大のブロンズ碑面制作にとりかかった。

何よりも感動したのは、川端先生から拝借した梶井書簡が、四十五年の星霜を経た今日なお真新しいまで大切に保存されていて、先生のあたたかいお人柄がうかがわれたこと、原稿用紙に毛筆でしたためた梶井さんの筆跡の流麗さ、これが弱冠二十六歳の手跡かと驚いたことで、ブロンズに移すのに力が入った。碑域の造園も湯川屋さんや故人旧知の庭師たちによって、すべて設計図通り、ツツジや石楠花・八重桜・柿などを配してくれたのもうれしかった。

ともあれ拙作の文学碑、不滅の梶井文学が今後さらに広く深く愛読される一つの道標ともなれば、設計・制作担当者として望外のよろこびである。」(大阪教育大学美術部助教授)


次いでこの建立計画の発端をつくった湯川屋主人安藤公夫氏の文。安藤氏は梶井が湯川屋に宿泊していた当時はまだ小学4年生であった。


「お忙しいお仕事を持っておられる皆さんが夫々に帰られてから、製作の西瀬先生御父子を吉奈温泉東府屋にあるお万の方の腰かけ石等に御案内し夕方家へ着いた頃から冷たい雨が降り出しました。親しい友人達が今までの労苦をねぎらってやろうと一席設けてくれたので、そこへ出かけ家へ帰ったのが何時頃かわからない程に酔っぱらって寝てしましました。翌朝七時頃起きて碑のまわりの掃除に行きました。雨はやんでいましたが、しっとり濡れた碑が心なしか、ずっしりと落ちついてずっと前から此処に建っているように思われました。間もなく西瀬先生方もいらっして写真を撮って頂いたり色々のことを教えて頂いたりしながら碑を見つめていると改めてその立派さに惚れこんでしまいました。

昔、ある朝のこと、川の方からもの凄く大きな声がきこえるので両親と雨戸を明けて見ると、まだ薄暗い川の真中にある大きな石の上に真裸になった梶井さんと三好さんがお互いの肩を抱き合って泣きながら何やらわめいていました。子供心にも何か鬼気迫るといった感じになったのをおぼえています。碑の二倍位の大きな石でしたが、狩野川台風の時流れてしまいました。その後ずいぶん探しましたが淵に沈んでしまったのか砕けてしまったのか全然見当たりません。こんなことを想い出しながら碑を見ていると、なんだか、見つからないあの石が能勢の妙見山の峡谷から小さくなって帰って来たのではないかなど、あり得ないこと等も考えたりして、碑の傍にいる時間がつい長くなってしまいます。

式の時はまだ沢山あった柿の葉もすっかり落ちて、更に赤みを増した実が冬空にくっきりと浮かんでいます。植えたつつじ、石楠花、八重桜もみな元気です。出来ますことなら、年に一度皆様方に又碑の周囲で赤飯のおにぎりでも食べる会をつくって頂きたいと思います。西瀬先生に教わった竹燗の酒を差上げたいと思います。

十一月十九日川端先生が奧様とこっそりお見えになりまして碑を御覧になりました。私は留守にしてお会い出来ませんでしたが、家内に「梶井君も静かでいい所へ碑を建ててもらって喜んでいるでしょう」と御機嫌よく帰られましたことお知らせ致します。」


安藤公夫氏の願い通り、碑が建立された翌年の昭和48年(1973年)から毎年5月に湯川屋で「檸檬忌」が催されることになった。梶井の命日は324日だが、それにはこだわらず、碑の川端宛の碑文にあわせて5月に開かれることにしたのである。この日は「青空」の関係者をはじめ、彼の文学の愛好家たちが集まりに多くの人たちが集まった。

安藤氏は昭和53年(1978年)に、湯ヶ島での梶井の思い出をまとめた『梶井基次郎と湯ヶ島』(皆美社)を刊行した。手許には安藤氏が献辞を墨書してくれた一冊があるが、これはNHK在職当時、檸檬忌を取材して「ニュースセンター9時」で放送した際に頂戴したものである。しかし残念なことに、安藤氏が平成8(1996)に亡くなると湯川屋は廃業、「檸檬忌」も途絶えた。

その後「湯ヶ島檸檬忌」として再開されたのは2016年である。そして同年には、長らく絶版だった『梶井基次郎と湯ヶ島』も「井上靖文学館」から復刻・新装版が刊行された。

さらに長らく閉じられていた「湯川屋」も、改築された上で会員制の宿泊施設「湯川屋 天城ビレッジ」として新たにオープンした。

「檸檬忌」はコロナ禍のなかでも関係者の尽力で開催され、安藤氏の孫である神田航平氏が実行委員長をつとめている。毎年多くの梶井文学ファンが集り、文学碑にレモンを供え梶井基次郎に思いをはせるという。


# by monsieurk | 2023-12-15 09:00 |

梶井の文学碑Ⅰ

 『評伝 梶井基次郎 視ること、それはもうなにかなのだ』(左右社)を刊行したのは20108月で、いまはKindle(電子書籍)とオンデマンド版でお読みいただける。畏友の廣田昌義氏が小冊子『梶井基次郎文学碑』を探し出して送ってくれたのはそのころのことであった。かつてこのブログで「梶井基次郎の文学碑」(2014 0530)として一度紹介したが、その後の経過も含めて再度取り上げることにする。

 

 レモン色の冊子は縦17・4cm、縦200 cmで、裏表紙の下方には「梶井基次郎文学碑 昭和47120日刊 梶井基次郎文学碑建設世話人会発行 非売品」と印刷されている。

 手許の冊子には、いまでは使われなくなった青焼きの挨拶文がはさまれている。そこにはこうある。


「謹啓 陽春の候となりました 御健勝の御事と拝察いたします

さて昨年十一月三日 有志により伊豆湯ヶ島に / 梶井基次郎文学碑を建立いたしました これを記念し / 小冊子を編みましたので 梶井ゆかりの方々 梶井文学を / 愛する方々に 御覧いたゞきたく謹呈申し上げます

  昭和四十七年三月二十一日

          皆美社内

           梶井基次郎文学碑建設世話人会」

 

 冒頭には、梶井が昭和二年四月三十日付で川端康成宛てに書いた手紙の一節を刻した石碑の写真が掲載されている。

 

 「山の便りをお知らせいたします。

  櫻は八重がまだ咲き残つてゐます

  つゝぢが火がついたやうに咲いて来ました

石楠花は浄蓮の滝の方で満開の一株を見まし

たが大抵はまだ蕾の紅もさしてゐない位です

げんげ畑は掘りかへされて苗代田になりました

もう燕が来てその上を飛んでゐます

    伊豆湯ヶ島世古ノ滝

    湯川屋内

         梶井基次郎」


この碑面の写真に続いて、除幕式に参列した雑誌「青空」の同人たち他の懐かしい写真が掲載され、次いで梶井ゆかりの18人が寄せた文章が載っている。そのなかから、中谷孝雄、西瀬英行、安藤公夫の3氏のものを紹介する。

梶井は重くなりつつあった肺結核の転地療養のために、昭和元年(1926)の大晦日に伊豆の温泉地湯ヶ島へ行き落合楼に投宿した。この地を選んだのは逗留中の川端康成を心当てしたためであった。

翌日の昭和2年元旦には、同温泉の西平にある湯本館に川端康成を訪ね、彼の世話で世古の滝にある湯川屋を紹介されて、それから一年五カ月湯ヶ島に滞在した。その間、湯ヶ島での体験を素材にして、「蒼穹」、「筧の話」、「櫻の樹の下には」、「闇の絵巻」、「交尾その二」、「温泉 第一稿」の六篇を書いた。いずれも珠玉の作品である。

さらに滞在中には、「青空」同人の中谷孝雄、外村繁、淀野隆三たちが繰り返し見舞いに来てくれたほかに、避暑や執筆にためにこの地に滞在した川端をはじめ、広津和郎、尾崎士郎、宇野千代夫妻、萩原朔太郎などの作家や詩人たちと知り合いになった。

『梶井基次郎文学碑』には、かつての同人などが文章を寄せているが、まずは旧制三高以来の盟友で、梶井とともに「青空」を牽引した中谷孝雄氏の「除幕式を終わって」――


「梶井基次郎の文学碑が彼に縁故の深い伊豆湯ヶ島温泉に建設され、去る十一月三日その除幕式に際し彼の旧友達やまた彼の文学を愛する多くの人びとの参列を得たことは、私の深く喜びとするところである。

思えばもう一五、六年も前のことであった。湯川屋主人の安藤公夫氏から梶井の文学碑を建設したいという要望があり、淀野隆三と三好達治と私の三人でその相談のために湯ヶ島へ赴いたのであったが、諸般の事情で建設の準備がまだ整わないうちに三好と淀野とが相次いで世を去ったので、その実現ものびのびになってしまった。そのうちに三好の詩碑の方が先に建設されることになり、私としても梶井の文学碑のことがいよいよ気がかりになりだした。幸、このたび漸くその機が熟し多年の懸案が果たされるに到ったことは、これひとえに諸氏の熱心なご協力の賜物であり、われらの深く感謝するところである。

ことに川端康成氏が、われらの願いを容れて快く副碑の題辞を執筆してくださったばかりか、同氏宛の梶井の書簡を貸与してその一節を彼の文学碑の碑面に刻する便をはかってくださったことは、われらのみならず、恐らく地下の梶井も大いに感謝していることであろう。生前、梶井は川端氏に傾倒すること深く、川端氏の方でもこの後輩に期待されるところは大きかったようだ。

湯川屋の主人安藤氏の終始変らぬ熱心さや梶井の長兄謙一氏始めその一家の協力も大きかったが、皆美社の関口弥重吉君や石川弘君の尽力にも銘記すべきものがあった。文学碑建設の事務一切は、殆どこの二人でやってくれたのであった。碑の設計者西瀬英一・英行の父子を紹介してくれたのも関口君であり、その後の西瀬父子との連絡には主として石川君が当ってくれた。私は事務一切をこの両君に任し、碑の設計に就いては西瀬父子にお任せして一切口出ししないことにした。聞けば西瀬父子も梶井文学の愛好者であり、碑の建設建立には献身的な努力を惜しまれなかった。

また除幕式の当日には、俳誌「秋」の主宰者石原八束君が司会の労をとってくれた。石原君は三好達治の門下であり、三好の詩碑の建設に与って大いに力を致したが、同君はまた梶井文学の愛好者でもあり、こんどの司会も快く引受けてくれた。聞けば同君はその夜の飛行機でアメリカへ立つ〔ママ〕ことになっており、多忙な時間をやっと都合して会場へ駆けつけてくれたのであった。

こうして多くの人びとの協力により、梶井の文学碑は立派に完成しその除幕式もめでたく終ったが、私は何もしないのに当日参集してくださったかたがたへのお礼もろくに述べないままになってしまったようだ。ここに改めてそれらのかたがたへの感謝の意を表したいと思う。」


冊子には、マイクをにぎって挨拶する中谷孝雄氏や建立された文学碑の写真が掲載されているが、石碑の前には台が設けられ、そこには兄謙一の家の庭で撮った梶井の写真、3巻の筑摩版全集、雑誌「青空」と並べて、梶井が三高時代に使っていたズックの鞄が飾られている。()

 


# by monsieurk | 2023-12-10 09:00 |

マラルメの死Ⅲ

 幾千もの人たちが列をつくったユゴーやマネの葬儀にくらべて、この日の会葬者はおよそ30人ほどであった。そのなかには、文学者や画家にまじって近隣の農家の人たちの姿もあった。

柩は白い布と花で飾られ、温和な微笑をたたえたマラルメの写真も飾られていた。寝台の枕元には、ワーグナーとベートーヴェンに関する書物が置かれていた。皆がつぎつぎに花を柩に捧げ、ヴァレリーはパリのオーギュスタン街の花屋でつくらせた薔薇の花環を置いた。

 この日は真夏を思わせる暑い一日だった。会葬者はこのあと、およそ13キロの道を歩いてサモローの教会に行き、そこで簡素な式が執り行われた。

埋葬は教会からほど近い、セーヌ川を見下ろすサモローの墓地で行われた。「白色評論」社と「メルキュール・ド・フランス」の大きな花環が捧げられていた。

カチュール・マンデス、アンリ・ルージョン、ディエルックス、タデ・ナタンソンと妻ミシア、ルノアール、ロダン、テオドル・デュレ、メリー・ローラン、エドモン・ボニオ、ユザンヌ、ジュリーの従妹のジャニーヌ・ゴビヤールたちが見守るなか、年長者を代表して、アンリ・ルージョンが心のこもった弔辞を述べた。残された二人の今後についてしかるべき保障を約束し、亡き人の人となりについて、「人びとが助けを求めるとき、彼は子どものような大きな眼を伏せて、あなた方にやさしい手を差しのべたのです」という言葉に皆は涙した。

 詩人のキヤールがヴァレリーを墓穴の脇に連れて行き、若い世代を代表して弔辞を述べるように促したが、ヴァレリーは口ごもるばかりで、言葉にならなかった。

マラルメは長男アナトールが眠る同じ墓に埋葬された。最後の別れをするジュヌヴィエーヴの姿が、あらためて皆の涙をさそった。

 葬儀のあと人びとは三々五々帰途についたが、ナタンソン夫妻は、友だちをヴィルヌーヴの家に誘った。ルノアール、ロートレック、ヴュイヤール、ヴァロトンなどの画家や、作家のミルボー、ブールジェ、マーテルランクなどがやって来た。

夕食の席では、大きな悲悲しみを隠して皆は陽気に振る舞った。そんな不自然な雰囲気にミシアが堪えられなくなると、ルノアールがそっと言ったという。「落ち着きなさい、ミシア。毎日マラルメを埋葬するわけではないのだから。」(Arthur Gold and Robert Fizdale : The Lifeof Misia Sert,Papermacs,S, 1982, p.75)


# by monsieurk | 2023-12-05 09:00 | マラルメ

マラルメの死Ⅱ

マラルメの予感は不幸にも当たった。翌99日の午前、彼はまた気分が悪くなり、すぐに医者が呼ばれてやって来た。10時頃、ふたたび発作が起こった。以下はヴァレリーがジュヌヴィエーヴから聞いたこのときの様子である。彼は12 日付のアンドレ・ジッド宛ての手紙でこう伝えている。


「金曜日〔9日〕に医者が彼を看みに来る。マラルメは(むろんのこと)気分がよく、起き上がりたいと思った。ところが医者と話しているとき、声門の痙攣が起こり、そのまま窒息死してしまったのだ。立ち上がり、医師にしがみついて膝をつき、崩れ落ちたときには死んでいた。こんなことは、通常は絶対に見られない稀有なことだそうだ。命とりになったこの痙攣は、ずっとあった喉の痛みとはほとんど関係がなかった。こうしたごくわずか可能性にも注意を払い、緊急の気管切開手術の用意が万事ととのっていたら、多分救うことができただろうに。

彼が亡くなったのは午前11時だ。お嬢さんは、最後の一瞬マラルメにはことの性質が判り、自分に視線を投げたと言い張る。お嬢さんにそう聴かされてから、ぼくにはこの視線が見える。」(André GidePaul Valery, Correspondance 1890-1942 ,Gallimard, 1956, p.332


マラルメ夫人とジュヌヴィエーヴの衝撃は大きかった。だがそうしたなかでジュヌヴィエーヴは健気にも、マラルメの親しい友人たちに電報を打った。

ヴァレリーが電報を目にしたのは、その夜の11時頃のことであった。外出から戻ると恐ろしい事実を告げる電報が待っていた。「ああ、父が今朝亡くなりました。日曜日の午後埋葬します。」(Henri Mondor: Vie de Mallarmé.Gallimard , 1942, P.801

ヴァレリーはまんじりともせずに一夜を過ごし、翌朝ジッドに葉書でこのことを知らせ、他の友人にも電報を打った。動揺はマラルメと親しかった他の人たちも同じだった。

電報を追いかけるように会葬案内が送られてきた。差出人には、夫人、ジュヌヴィエーヴ、親戚一同の名前とともに、マルグリット兄弟の名前があり、「葬儀は911日、ヴァルヴァン(セーヌ・エ・マルヌ県)にて、日曜日の午後4時から行われる。皆さまのご参列を請う」とあった。


日曜日、フォンテーヌブローの駅には、パリから来た人びとが降りたった。ヴァレリーはエレディア、レニエと連れ立って来た。彼らは汽車のなかでコメディー・フランセーズの女優モレノ嬢と一緒になった。

ピエール・ルイスは、最後の瞬間にヴァルヴァンへ行くのをやめにした。ジッドも葬儀には参列せず、その代わりマラルメ夫人に宛てて心のこもったお悔やみの手紙を書いた。

ヴァルヴァンの家には、大勢の人びとが集まっていた。パリから来た者は黒い礼服を着ていたが、まだ夏休みをとっている者も多く、そうした人たちは色とりどりの夏服だった。なかには自転車服でかけつけた人もあった。ヴァレリーが前庭に入っていくと、ジュヌヴィエーヴが泣きながら、「ああ、ヴァレリーさん、パパは貴方があんなに好きだったのに」と言いながら身を投げかけてきた。

ジュリー・マネ〔エドゥアール・マネの弟ウージェーヌと画家ベルト・モリゾの娘〕は、ルノワールとともに午後2時頃ヴァルヴァンに着いた。彼らは前の夜トロワに泊まったのだった。日曜日の日記に彼女はこう書いている。


「セーヌ川沿いの道を下って、家の方へ行くときの辛さ。あの人がもういないという事実をいやでも考えさせられる。ヨットはひとりぼっちだ。あの人があれほど愛したヨット。1887年にパパとママと一緒にはじめて散歩した日のことが思い出される。パパがムッシュ・マラルメに、なぜヨットに文字を入れないのかと尋ねると、ムッシュ・マラルメは帆の方に視線をやって答えた。『いや、あの大きなページは白紙のままにしておきますよ。』

小さな庭に入り、階段をのぼってお二人を見たとき、胸がいっぱいになった。どんなに嘆いているだろう。どうやって慰めることができるだろう。一緒に泣くことしかできない。かわいそうなジュヌヴィエーヴ。彼女はどうしてしまうだろう! ムッシュ・マラルメのいない素敵な室内を見るのは辛い。ジュヌヴィエーヴが小さい頃に植えた庭のプラタナスの木の下で、ムッシュ・マラルメのお話を聴くかわりに、ムッシュ・マラルメの柩を見るなんて、ひどすぎる。」(Julie Manet: Journal, Klincksieck, 1979, P.141)(続)


# by monsieurk | 2023-11-30 09:00 | マラルメ
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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